COMPETITIVE CITIES FOR JOBS AND GROWTH 競争力のある都市の事例研究 横浜 都市の将来を再編する 競争力のある都市の知識基盤 東京開発ラーニングセンター 2018年3月 免責条項 © 2018 The World Bank Group 本部所在地: 1818 H Street NW, Washington DC 20433 電話:202-473-1000 ウェブサイト :www.worldbank.org 本書の無断複写 ・転載を禁じます。 本書は、 世界銀行グルー プの職員により作成されたものです。 世界銀行グルー プは、国際復興開発銀 行(IBRD)、国際金融公社(IFC)、多数国間投資保証機関(MIGA)を含む機関から構成されてお り、いずれも、 各機関が定める協定に基づいて設立された、 個別の独立法人組織です。 本書は、教育 および非営利目的としてご利用くださいますようお願い申し上げます。 本書で表明される調査結果、 解釈、結論は、必ずしも世界銀行グループ構成機関の役員もしくは理 事、加盟国政府の見解を反映するものではありません。 また当グループは、本書に示すデータについ て、その正確性に関して一切責任を負いません。 権利と許可 本書は、外部の協力のもと、 世界銀行の職員により作成されたものです。本書で表明される調査結 果、解釈、結論は、必ずしも世界銀行やその理事会、 加盟国政府の見解を反映するものではありませ ん。本書のいかなる部分も、 世界銀行の特権および免責に対する制限またはその放棄となるもので はなく、また、そのようには解釈されるべきではないものとし、これら免責特権は明確に留保されるも のとします。 本書に関するお問い合わせ: 世界銀行グルー プ 社会・都市 ・農村 ・ リジリエンスグローバルプラクティス 東京開発ラーニングセンター (TDLC) プログラム 〒100-0011 東京都千代田区内幸町2-2-2 富国生命ビル10階 電話 03-3597-1333 Fax 03-3597-1311 ウェブサイト :http://www.jointokyo.org 東京開発ラーニングセンター (TDLC)とは 東京開発ラーニングセンター(TDLC)プログラムは、 日本政府と世界銀行のパートナーシップに基づ いています。開発インパクトを図るべく、 日本と世界銀行がこれまでに蓄積してきた専門知識を、 途 上国で進めている特定のプロジェクトレベルでのさまざま取り組みと融合させる機会を発展させ、 共 同研究や知識の共有、キャパシティ ・ビルディングといった活動を通じて、 世界銀行グループと加盟国 による、日本国内の選定都市・政府系機関・ パートナー企業との戦略的な協働を支援、 促進します。 2 本書作成の背景と謝辞 本書における調査研究は、 世界銀行グループの社会・都市 ・農村 ・リジリエンスグローバル プラクティス主催で、 東京開発ラーニングセンター(TDLC)により実施されております。本 調査研究の目的は、 都市を競争力のあるものにするための知識ベースを作り出すとともに、 都市における雇用創出の仕組みを理解し、 さらに日本独自の開発の歴史を捉えることです。 このようにして得られた知見を開発従事者、 政府職員、 大学研究者、 民間企業の間で広く 共有していきます。 当センターを継続的にご支援くださった日本政府に対して、本調査研究チームより深く御礼 申し上げます。 本調査研究は、 ダン・ルヴィン、メガ・ムキムの両名を中心に、ルーク・ジョルダン、井本はる 香、ジュニ・チュウ、村上望をメンバーとするチームが進めたものです。 また、本調査研究の審査および支援に関して、 世界銀行グルー プの岡澤裕子、ピーターエリ ス、オースティン・キルロイ、ステファノ・ネグリ、ジョン・カー・カウに感謝の意を表します。 最後に、本調査研究では、横浜市職員の方々、横浜市立大学・鈴木伸治教授、元横浜市職 員・土井一成様、横浜市を拠点とする民間企業の方々からもご助言を賜りました。心より御 礼申し上げます。 3 4 目次 序論  7 市の変貌:1963~1978年  9 飛鳥田市長と田村氏  9 六大事業  10 プロジェクトの実施  12 の拡大  13 「市長の裁量」 評価  15 新都市:1986~2010年  17 みなとみらい21地区  17 新横浜  20 迫り来る危機:2015年~  23 結論:目覚ましい、現実的かつ民主的な変貌  25 5 6 序論 横浜は日本で2番目に大きな都市であり、 国内の大都市の 中では最も新しい部類に入る1。 日本初の開港場の一つで して、池田首相は「10年間で国民所得を倍増させる」とい ある同地は、 幕末(1859年)にヨーロッパ列強に譲歩する う当時としては前例のない目標を掲げ、 国民は「新たな政 形で開かれた。 日本最大の都市にして権力の中心である東 治的展望に期待を寄せた」 と言われる。港と産業界は支配 京(当時の江戸) に近いが、 東京そのものではないという 的地位を回復したとは言わないまでも着々と態勢を立て直 わけで選ばれたのである。 以来、 横浜は独自のアイデンテ し、東京の急成長が横浜北部の住宅開発に波及、 それに伴 ィティを発展させたが、 その運命は東京の運命と絡み合っ って環境汚染、スプロール現象、 過密化が起こった。 てきた。日本の鉄道網は、 明治政府が発行した外債のみで 資金を賄った東京-横浜間の路線から始まった。 19世紀 後半から1930年代にかけて、 横浜は日本最大の港へと発 図1:1900年代初めにおける開発当初の京浜埋 展した。神戸と並び、 造船と重工業の中心地となった他、 め立て地 郊外からの鉄道路線や街路のガス灯など近代的な公共財 へ真っ先に投資した都市に数えられる。 こうした開発の多くは、 初期の有力な実業家と投資家のコ ンソーシアムを中心として行われた。 京浜工業地帯は、 港 の北部と隣接する川崎市に伸びる一帯で、 「明治のセメン ト王」として知れられた有名な実業家、 浅野総一郎によっ て 建設された(図1) 。資金を提供したのは、 戦前の日本を支 配していたコンソーシアム、 「財閥」傘下の銀行である。 関 係者のネットワークに加え、 同銀行によって、用地に工場を 建設する用意のある他の投資家を十分に集めるという調 整問題も解決した。 1920年代には、自動車、化学、機械の 分野で当時の先端技術を扱う企業が京浜地帯でクラスタ ーを形成していた。 対外通商における日本の窓口としての 役割から、市は外国為替、 貿易信用、保険ブローカーなど 多様なサービス産業を擁していた。 市は、 日露戦争後の暴 動や第一次世界大戦後の恐慌など頻発した社会的・政治 的混乱や、1923年の関東大震災という自然災害を目の当 たりにした。 第二次世界大戦中、 横浜とその海軍関連産業は連合軍の 出典:横浜みなと博物館の展示 激しい爆撃の標的となった。 戦後の占領下では、 市域の半 分以上が接収された。 連合軍の大規模な進駐は日本の他 市がその後、 運命づけられた道を辿っ ていた可能性もあっ の都市より大幅に長引き、 1950年代後半まで続いた。 この たかもしれない。 既得権に妨げられ、 近くの大都市に飲み 時代に得られた成果の一つに、 連合軍の占領により日本の 込まれ、国家政策と民主政治の制約を受けた結果、 せいぜ 港湾行政が分散化されたため、 横浜港が市の管轄下に置 い東京のベッドタウンになるか、 最悪の場合は首都に近接 かれたことがある。1940年代後半から1950年代にかけて する荒廃した工業地帯になったかもしれなかった。 このよ 横浜の再建と経済の復活が達成され、 1960年頃には激し うな流れは、 先進国でも開発途上国でもよく見られる。 と い政治的混乱の舞台となった。 こうした混乱期への対応と きには、こうした流れが活性化のビジョンを掲げる市長の 登場によって中断されることもあるが、 そうした市長も1期 1 東京を入れると「2番目」。日本の行政区分では、東京は厳密には市 か2期務めた末に困難や反対に遭い、 その計画は次期市長 ではなく都道府県に相当するため、 それを考慮すると横浜は最大の「 にひっくり返されるのである。 こうした事例によっ 「制 て、 市」となる。 約は変わらず、 政治は障壁であって、必要なのは現実から 7 解放されて猛突進する技術家主義のリーダーシッ プを貫 その道のりは常に順調というわけではなかった。 1980年 き、トップダウン式にビジョンを押し付ける力を持った人種 代、それまで中心部 ― みなとみらい21地区 ― にあっ である」 という一種の民衆の知恵が強化される。それがな た造船所を移転する計画は、 規模と範囲を大幅に拡大し い場合に最善の現実的な策は妥協した漸進主義である。 た。1990年代にようやく用地が整備されたときには、 日本 のバブル経済が崩壊した直後とあっ て、この「新都市」 型プ 横浜で起こったことは、 それとはかなり異なっ てい ロジェクトはその最高の立地にもかかわらず、 約20年間に た。1960年代以降、最初は優れた指導者の努力と市民の わたり、 当初予測された数のテナントを誘致することがで 支持、 結集されたエネルギーを通して、次いで行政に組み きなかった。 現在この地区は、 補助金によっ ていくつかの多 込まれた決まった行動と実践を通して、 市は生まれ変わっ 国籍企業の日本支社やR&D拠点を誘致した末、 数十万件 たのである。 港と重工業は市の物理的・経済的中心から離 近い雇用を抱えている。 市内にある新幹線の駅周辺に広 され、 大規模な住宅開発は中断されるのではなく方向付 がるもう一つの地区、 新横浜は、 みなとみらい21地区に比 けを与えられた。 市は大幅な人口増加を吸収し、 技術の変 べると注目度はかなり低かったが、 1980年代半ば以降、 日 化と経済再編成の波を繰り返した。 かつての異国情緒ある 本経済が失われた10年の停滞期に陥っ ている間でさえ、 港町は、 今日では東京よりも生活の質が高いと評される場 活況を呈していた。 今日この地区は、 ここ5年の間はやや停 所へと変貌を遂げたのである。 広域の首都圏経済に組み 滞しているものの、 半導体の設計と流通を担うクラスター 込まれていながら、 横浜市ははっきりと異なる経済構造を となっ ている。 持つ。 その経済構造は、次第に先端的な研究開発 (R&D) に移っ てきた。 日本の他の都市と同じく、 横浜市は急速な高齢化に伴う人 口動態上の危機に直面している。 2030年には住民の30% 近くが65歳以上となる。この状況によっ て、直接的な財政 負担が増すだけでなく、経済上のリスクも生じる。 市のバッ クボーンとなっている中小企業数千社の創業者や所有者が 定年退職することになるが、 その多くは事業継承計画を用 意していないと言われる。 迫り来る危機に対処すべく その 大きな強みを活用しようとするなら、 市は内部の自立性、 自 己決定、そして最も目覚ましい数十年を特徴づけた脅威を 将来の強みに変える能力を促進する必要があるだろう。 8 市の変貌:1963~1978年 飛鳥田市長と田村氏 就いたのではなく、深い関与、市の自治、一般市民の生活 の質という3本の柱を強調していた。 大幅な成長、 環境悪化、 技術的脅威–1963年、横浜市の 多面的で類まれな都市計画家–当選した飛鳥田は、 戦後 人口は150万人に達した。この時代は、 人口が毎年10万人 数十年間政府や地方自治体で顧問を務めた著名な都市計 ずつ増えるという大幅な成長が続いていた。 京浜地帯に集 画家の浅田孝に、 市の今後の都市計画を委託した。 その浅 中する重工業が大気汚染を引き起こし、 無秩序な急成長 田は田村明をプロジェクトの担当者に据えた。 田村は多方 が水害の起きやすい都市環境を生み出した。 市は、より広 面にわたるがその任務に関連する諸分野を組み合わせた 域な首都圏、 あるいは関東地方の中で、 主流から取り残さ 経歴を持っ ていた。東京大学で法学、 政治学、建築学とい れたベッドタウン、 汚染された重工業の中心地、 陳腐化し う3つの学士号を別々に取得していたのである。 田村は在 た港を兼ね備えた存在になる危険に晒されていた。 港の陳 学中も含め複数の省庁で働いた後、 不動産・金融会社に加 腐化の危機は、 ばら積み貨物の荷役からコンテナ利用へと わった2。その人物像は、 興味の対象が広く、 チームメンバ いう輸送技術の転換が目前に迫っ ていたためである。 これ ーに厳しく、 まちづくり(コミュニティ形成)としての都市計 は、輸送コストが下がることで、 いずれは市の他の産業に 画に深く関与したと描写される。 利するだろうが、 中期的には人口の急増する市における最 大の雇用先の一つを脅かすものだった。 「暗いばかりの将来」 が改革のビジョンにつながる–田 村のチームが実行した仕事には、 偽りの楽観主義がなかっ 「市長の裁量」の小ささ–当時から (現在もなお) 日本の た。 市の当時の方向性に沿っ て考えられる将来をすべて検 都市は「三割自治」 ― 7割の決定や財源の割り当てが上 討し、 「どれもだめだ」 と述べたと言われる。 1963年から 級政府によってなされ、 市の権限は3割に留まる現象 ― だ 1965年までの2年間にわたり、 田村はそれまでの都市計 と言われている。横浜では、 このような制約がとりわけ顕 画に存在していたいく つかのアイデアを吸収することで6 著だった。国会議員の大部分は、 より一般的には日本の第 件の重要なプロジェクトをまとめ、 「市の 『骨格と内臓』 を 一党である自由民主党 (自民党) がそうであるように、 港 形成する力強いエネルギーを生み出し」 た3。 最後に田村 や産業界と結びついていた。 同じく市議会でも、 同業界と は、 市がどう変貌できるかについて、 以下に述べる 「六大事 の結びつきが強い議員が支配的だった。 この日本の発展 業」 を中心とする抜本的な計画を提示した。 従来の長期的 期における最大の不動産開発業者は民間鉄道会社であり、 な計画では市の課題に十分対処できないと考えたのであ それらが市の郊外のスプロール化をせっせと進め、 当然な る。 田村をすでに 「味方に引き入れていた」 4 飛鳥田市長 がら大きな発言権を持っ ていた。 市が異例の自治権を有し は、 1968年、今度は田村に市に勤務して計画の実行を手 ていたのは港である。 終戦直後、 進駐軍の決定により港湾 伝っ てほしいと要請した。 田村はそれを受け入れ、 両者は「 管理は国の管轄から外されて多数の独立した市レベルの 市民の参加が公共政策の策定の中心にあるべきだ」 という 機関に分散化されており、 実際はともかく理論的には自治 共通のビジョンを抱いて、 その後12年にわたっ て協力する 体の影響下に置かれていた。 ことになった。 急進的な新市長–1963年、 飛鳥田一雄が新市長に当選し た。飛鳥田は自民党に対抗する日本社会党の有力メンバー の一人であり、 日本政府の中核的な優先項目だった日米安 全保障条約に反対する存在としても目立っ ていた。飛鳥田 が選挙戦の中心に据えたのは、 市民の共同行動 ― 市民が 市に大幅に関与することで自らの運命を選ぶという政治的 ビジョン ― を通し、 市の自治を確立することだった。 飛鳥 田は、市の自治を確立し、 市民の生活の質を重視する市を 建設するため、 「1万人市民集会」 の企画を約束した。 選挙 戦の報告によると、 飛鳥田は市に課す予定のプロジェクト 2 (Tamura, 1983) や政策のリストなどあらかじめ定めた計画を携えて公職に 3 (Tamura, 1983) 4 (Dimmer, 2012) 9 六大事業 六大事業で具体化された総合計画。 計画は、現在でも市で よく知られている「六大事業」を中心にまとめられた。 以下 がそのプロジェクトである(図3): 技術的脅威が好機に– 田村は、港を移転し、 経済的にも物 理的にも市の中心から外さない限り、 市が持ちこたえ、変 • 中心部の変革:港、造船所、小規模工業を移転する、 貌することはできないと考えていた。 当時は港によって、以 および市の経済的原動力として商業・文化活動の中心 前からの市の中心部(関内)と、 戦後に関内が占領軍の下 を形成する に置かれていた時期に発展した横浜駅周辺の新たな中心 部とが隔てられていた(図2)。港を移転すれば、 市の中心 • 港北ニュータウン:人口の急増を吸収するため手頃な 部は充実したサービス・文化エリアにまとまり、 郊外住宅地 住宅を提供する、住民が市の中心部にうまく接続され を統合できる。船の大型化を伴い、 新たな荷役設備を必要 るサービスの行き届いた住環境を創成する とするコンテナ輸送時代を控え、 港を移転する機会が到 来した。新たな設備とインフラはただ単に旧港から離れた • 金沢地先埋立事業:公共交通輸送による中心部へのア 場所に建設すればよい。 同時に、 市が湾に橋を架ければ、 クセスに支えられた、労働者、住民、訪問者にとって健 トラックが市街地を横断しなくても工業地帯と新港とが結 康的な環境を備えた工業地帯を創成する ばれ、慢性的な渋滞の原因が減る。 合わせて、一部の重工 • 地下鉄:中心部と近郊、特に住宅地と商業/ビジネス 業を南部へ移転するよう誘導し、 充実した輸送網を発展さ 地区を、既存の非効率な市電を廃止し、安定した公共 せ、秩序だった住宅開発を行えば、 港と工業は、北部の近 交通輸送網で結ぶ 郊開発地域と商業・サービス業の核心部から隔離されつつ なお結ばれた形で、ダイナミックな成長を継続できる。 • ベイブリッジ:物資輸送の物流を分離するのに役立 ち、ウォーターフロント地区の景観のアイコンとなる • 高速道路:市を支える幹線道路網を形成する、市内交 通と都市間交通を分離することで効率と安全性を確 保する 図2:1961年の横浜・関内駅と港湾施設/造船所 横浜駅周辺の新たな中心地 京浜工業地帯 鉄道庭 旧港湾施設 造船場 旧港湾施設 古くから市の中心である関内 1961年撮影 出典:国土地理院地図・空中写真閲覧サービスの画像をもとに筆者加筆 10 図3:六大事業の場所 • 「非定型流動型」:従来とは異なる全市を対象とした 包括的な考え方を導入することで、縦割りの考え方か ら脱却する • 「大テーブル主義」:総合的な調整機能、情報共有、 人材開発を必要とするプロジェクトを活用する プロジェクト資金は複数の資金源から集められた–プロジ ェクトが発表されたとき、 市の予算では実現不可能なこと はわかっていた。 それでも飛鳥田と田村には、 十分な協調 体制の構築、 他の資金源を見つけ出す高い資質、 市民の 後押しがあれば資金を調達できるだろうという確信があっ た。つまり、すべてのプロジェクトが同時に開始されるわけ ではなく、それぞれ資金が集まっ てからの開始ということ である。例えば港と産業界は、 つながりのある国会議員を 通して日本政府に対する影響力を利用し、 日本道路公団5 経由で幹線道路網に対する国家予算の割り当てを獲得す るよう説得された。 港北ニュータウンは、 現在の都市再生 機構の前身にあたる公団によっ て開発された。ベイブリッ ジは、国の道路網の一環として日本政府によっ て建設され た。残りのプロジェクトは、 市が発行した内国債と外債、 国 の補助金、都市整備公団を組み合わせて開発された。 出典: (1983年1月) 『都市ヨコハマをつくる』 の地図をもとに筆者が作 この大規模インフラのビジョンについても、 市民は活動の 成 中心にいた。 選ばれたプロジェクトについて、 飛鳥田はビジ それまでの努力と既存の計画を活用した選択–プロジェク ョンがよく知られるよう、 市民と直接触れ合う積極的かつ トは飛鳥田と田村が一から構想したものではなく、市当局 継続的なキャンペーンを開始した。 1967年、市議会から度 やさまざまな関係者が他の多数のプロジェクトと合わせて 重なる妨害を受け、 それでも幾度も試みた末、 飛鳥田は 「1 議論したものだった。例えば、港は長年にわたり新たな幹 万人市民集会」 を開催することができた。 計画の題目さえ 線道路網の開発を求めており、 港と産業界は湾を横断す も市民を中心に据え、 「市民がつくる横浜の未来」 を呼び る橋の建設を望んでいた。二人の指導者は計画を白紙か かけていた6。ゆくゆくは市民による審議会の包括的な組 ら立てるのではなく、都市変革に対する現実的なビジョン 織、「街づくり協議地区」 が導入されることになる。 そこで を利用することで、六大事業を選択し、統合し、動機を与 は市民、地域の企業、 市の当局者が詳細な地域計画を考 えた。 案し、それが地区ごとの協議指針にまとめられ、 インセンテ ィブを設けた建築規制その他の政策手段に使用される。 協調体制を構築し、 文化を変えることを重視した選択–全 厄介な点は市民参加の細部にあり、 これだけ月日を経た現 体のビジョンとの一致に加え、 少なくとも他に二つの基準 在でも、市民参加によくある問題 ― 最も声高に主張する が使用された。 一つは、プロジェクト関係者のうち重要な 者による占拠や支配など ― のいく つかがいかにして緩和 メンバーの少なく とも一人が、有力かつ市政の外にいるとい されたか、または克服されたかは、 よくわからない。 市長 うことである。そうすることで、 市政に変更が生じてもプロ のビジョンや田村の担当部門その他 (以下を参照) におけ ジェクトの関係者は優先度を維持できる可能性が高まる。 る文化や実践など、 行政の中心に市民参加の場があるとい 上で述べたように、 幹線道路と橋のプロジェクトはいずれ うことは、こうした問題がおそらく その唯一実行可能な克 も港と産業界を引き込むことができる一方、 不動産開発業 服手段として、その文脈内で順次処理されたことを意味す 者と市民グループは住宅開発と地下鉄にこだわっ ていた。 る。 二つ目の基準は、 プロジェクトが少なく とも計画が固まるま で、市政の複数の部局間における協力を必要とすることだ 市民集会は始まりであり、 終わりではない。集会後も、飛 った。それらのプロジェクトが確かに組織の中心部から調 鳥田はプロジェクトにおける、 そしてプロジェクトの支援に 整されたことを納得させ (以下を参照) 、かつ当局者の間 対する市民参加を確保し維持することに力を注ぎ続けた。 で複数の支持者を生むためである。 二つ目の基準は、 例え 六大事業を説明するカラフルなマンガやポスターなど多彩 ば六大事業の最終リストから下水道の拡大を外すのに使用 なコミュニケーションツールを駆使し、 学校で配布したので された。完全に下水道担当部局の管轄だとみなされたから ある(「インフォグラフィック」は意外に古くからある)。飛 である。 鳥田は、混乱の1960年代前半に抗議活動を行った者を中 心に、多方面にわたるかつての学生活動家を取り交ぜて雇 組織の行動を変える–全体として計画と選択においては、 用し、市民福祉制度や市民奉仕活動の運営にあたらせた。 計画立案を通して組織の行動を変える三原則を組み込も こうした活動の先頭に立ったのは飛鳥田に市に呼び寄せ うとした。以下は田村が考案し、まとめたものである。 られた鳴海氏で、 まちづくりと協調体制管理の経験があっ た。鳴海はそこで生まれた政治的資本を活用して市議会と • 「市民のための創造的な市」 「戦略的 :市民を重視し、 特性」を備えた持続可能な都市の戦略的ビジョンを 5 1956年に政府が設立した公共団体で、2005年に民営化された。 生み出す 6 (Dimmer, 2012) 11 の交渉にあたり、プロジェクトを維持する上で直接的 (再 プロジェクトの実施 選を通して)、間接的(そうしたプロジェクトを放棄する場 合の後継者に対する政治資金の引き上げによっ て)に一般 の人々に頼った。 企画調整局– 横浜市庁に加わって数年後、1968年に田村 は新たな局を設けた。 この局は市長に直属し、 他の局より その後の(数)十年にわたる各フェーズで、プロジェクトは やや上に位置するとみなされた。 同局はプロジェクト実施 流れに乗った。以下にプロジェクトの主なマイルストーンを 中の協調上の問題を解決するとともに、 個々のプロジェク 時系列で示す: ト計画を監督し、 見直しを承認する権限を与えられた。 当 初、同局には田村が個人的に採用した約15人の職員が配 • 都心部強化事業: 中心部の遊歩道と馬車道商店街の 属されていた。 田村は関係諸部門から有望な若手職員を オープン(1976)、横浜駅東西自由通路の開通と伊勢 探し出し、プロジェクトに関わらせることにしたのである。 佐木モールのオー プン (1980)、みなとみらい21プロ なお、他の都市の同じような部門には大抵事務職員しかい ジェクトの建設開始 (1983)、日本丸メモリアルパーク ない7。 と横浜新都市ビルのオー プン (1985) 障害を取り除き、情報を集めることの繰り返し– 田村自身 • 港北ニュータウン :最終計画の承認(1974)、第一陣 が議長を務める月例会議では、 プロジェクトにおける障害 の入居(1983)、それに先立って新たな都市計画法お や大規模な見直しが議論され、 解決された。田村はまた、 よび横浜市宅地開発指導要綱の制定 (1968) 現場の最前線に立つ部局をはじめとする他部局の係長 ( 補佐役の若手職員)に情報を求め、 収集することにしてい • 金沢地先埋立事業:埋め立ての完了(1977)、工場の た。同局は、土地の売却と土地使用権の変更について民間 移転、新交通システムの導入、湾岸道路、 マリンパー セクターとの交渉を担当していたため、若手社員、上級職員 クの開発(いずれも数年内に実施) (月例会議の場合)、行政の外からの情報を交換する場と しての様相を呈するようになった。 • 地下鉄の建設:最初の路線が開通(1972)、その後数 年で延長され、後に東京の主要鉄道路線に接続、 路 六大事業の枠組み内では、 計画の調整が当たり前のよう 線上に緑地整備、元の工業地帯に水路 (小川、 河川) に繰り返された–一例を挙げると、 地下鉄路線の経路は当 を再生 初の計画から大幅に変更された。 金沢地区は重要な工業 および港湾活動の舞台となっ ていたが、1949年の横浜市 • 幹線道路網の建設:主要バイパスの開通(1980)、以 立大学の創立により、 研究 ・学術地区にもなっ ていた(同 来、幹線道路の建設を継続 大学は今日、 世界でも一流の小規模大学に数えられる) 。 • ベイブリッジの建設:全面開通(1989) 当時は若手として関与し、 今では退職している元職員に、 実施中に変更された計画と、 当初案のままだった計画がど 市長は交代、 プロジェクトは継続–よく繰り返される、 とき のくらいあったかを尋ねたところ、 計画内容を見直された には当たり前とみなされるパターンとは対照的に、 1978年 のが80%、 変更を加えられなかったのが20%ほどではな に飛鳥田市長が退陣した後も、 六大事業の勢いは衰えな いかとのことだった。 継続的な調整は、 同局では文化の一 かった ― あるいは市の行政活動における中核的な地位 部として根付いていたため、 同じ職員に現在マレーシアの を失わなかった。 同事業は組織に蓄積された記憶となっ て PEMANDUが従う「70/30」ルール(70%が調整/30% いるため、 市の上級職員の多くは今日でも市について尋ね が当初の計画) について話すと8、 横浜では見直された計画 られると、 真っ先に六大事業を挙げる。 そのストーリーと の割合がそれより多かったと思うが、 それは最初から完璧 技術は、一部は横浜市庁を辞した後に多く の都市で顧問を な計画などないからだと述べた。 務めた田村自身の活動を通し、 日本の他の都市にも広まっ た。現在もなお、 横浜市民ではない一般の人に尋ねても、 「横浜方式」、「公共性の追求」 「協議地区」 、 – 同局の活 横浜と言えば六大事業を思い浮かべる場合がある。 つまり 動は六大事業に限らなかった。 市の都市設計にも関与し、 プロジェクトは、 策定から50年を経ても共通の知識として 主要プロジェクトすべてにおいて、 公共性を追求し、 人々が 生き続けるほどに、 市のアイデンティティに組み込まれてい 触れ合い、コミュニケーションを取れる場を設けることをミ るのである。 ッションステートメントとしていた。 これは、インセンティブ を設けた建築規制9、および高さ制限、 容積率、 公共空間の 要件を通して行われた。 この方法に関連した例外の考え方 は、公共空間の創出や歴史的建造物の保存に明確に結び ついたものだった。この方法を開発し実施する中で、 同局は 「街づくり協議地区」 ― 横浜市、 地域住民、商工団体の 間で行われる公開討論で、 こうした原則と規則をどのよう に実践するかを規定する ― の積み重ねを通し、 民間セク ターと市民の両方へ積極的に関与した。 7 (Tamura, 1983) 8 (Sabel & Jordan, 2014) 9 歴史的建造物の修復や公園の建設など、 一定の地域公共財を提供す ることに同意した開発業者に対し、 高さその他の規則の適用を除外す るもの。 12 文化の幅を広げる :会議の設定、 若手職員の採用– 田村は を重視する、一連の制度的構造とプロセスを通して慎重に 同局だけでなく、市政に携わる職員の文化形成を意識的に 考える、こうした原則に現実的な意義を与える、 などがあ 行った。横浜市庁に加わった当初から、 無視されがちな行 る。当時、これが日本の他の都市でどれほど共有されてい 政の生産ラインである会議の改革へ意識的に取り組んだ。 たかはよくわからないが、その頃の計画立案は直線的で 「 例えば、オフィスの中央に特大 (3.3 m2)の製図台を設置 トップダウン」式を特徴としていた。その当時を生きた者に するなど、これまでの慣例を変えた。 円卓討論はこの製図 とっても、当時をはっきり記憶している者にとっても、それ 台で行われ、上級職員も若手職員も自分のアイデアをトレ は今なお注目に値する独特のやり方として映っ ている。 ーシングペーパーの上に図で表現し、 それを地図やスケッ チに重ねた(今日のデザイン思考の先駆け) 。また、 同局で は定期的にスタッフ全員を集めた会議を開き、 そこでサブ 「市長の裁量」の拡大 セクションの責任者とスタッ フが進捗を報告した。 上で述 べたように、田村は定期的に第一線に立つ若手の職員と会 い、情報を収集するとともに彼らに助言を与えた。 田村は 「 今日、 多くの都市が直面する制約と同様に厳しい制約–当 勉強会」を立ち上げ、 自ら出席した他、 多くの場合そのテー 時の特徴として際立っ ているのは、市長と田村が都市統治 マも選んでいた。こうした活動の目的は若手職員の見識の の制約にアプローチした方法である。 その制約は厳しいも 幅を広げることであり、 彼らの結びつきを強化することで のだった。 自治体行政に対する権限は限られており、 反対 もあった。死去する直前に市政から退いた後もなお、 田村 政党が政府を牛耳っ ていた。地元の既得権益者は往々に はこうした勉強会に参加したり、 勉強会を主催したりしてい して敵対し、 制御不能な移住を含めて国全体の人口構造 た。一度などは(70代で)マチュピチュを訪問してきた後だ は急速に変化しつつあった。 隣接する東京はすでに巨大都 った。ある職員は「田村さんとそのアイデアによっ て直接ま 市となり、 中央集権化された国の首都として、まもなく世界 たは間接的に形作られたものは数知れない」 と述べ、 また 最大の都市になろうとしていた。 東京は横浜の構造的文 別の職員は、政策関係の職員には 「田村派」 がまだ存在す 脈 ― 関東平野の人口増加と地域経済 ― を操っていた。 ると話した。この根本からの文化的変化は、 六大事業、 お 近代の横浜に自治の歴史はなかったどころか、 市の44%は よび飛鳥田に次いで田村が市庁を離れたずっと後の変革 戦時中の空襲によっ て焼け野原となり、港湾施設の90%お 計画をさらに安定させる役割を果たした。 よび市街地の約1/3が進駐した連合軍に接収されていたく らいである11。 「都市計画」 ではなく「まちづくり」 と呼ぶ– 田村は、こう した活動全体で市民が中心であることを強調した。 上で 諦めるのではなく、自治を拡大するために一連の戦略を 述べたように、 総合的計画そのものを 「市民がつく る横浜 積み重ねる–これほどまでに限られた「市長の裁量」を前 の未来」 の計画と呼んでいたのである。 田村が強調したの にして、市長と田村は市の自治を拡大しただけでなく、その は、プロジェクトの選択と実施およびより幅広い都市計画 拡大をプロジェクトの中心に据えた。そのため、二人は複 における、 公共性とつながりという考え方だった。 実際、 数の戦略を、それも多くの場合は並行して追求した。以下 田村はチームに対し、 自分たちの仕事を 「都市計画」 では で述べるこうした戦略はこの二人および上級職員によっ て なく「まちづく り」と呼ぶよう説いた。 近年、 市民参加の話 実施されたが、実現を可能にしたのは上で述べた市民重視 題が再びもてはやされている。 実際の場面では、 ある参加 の姿勢だった。共通のビジョンを策定し、それに対する熱 者がかつて描写したように、 「ドアを開けて入り、 正面に座 意を盛り上げるために、協調体制をまとめ、交渉を開始、 り、たくさん話し、 最後にあたりさわりのない質問を少しす 実行するために使う政治的資本が用意された。 る ― または攻撃を受けて退散する」 となり果てる可能性 議会と発展的協調体制の管理–市としてはどんな利権者に があり、 多くの場合はそうなっ ている。 これとは対照的に、 ついても反対者と断定しないようにした。 むしろ議題の一 横浜市政は厳密かつ持続的な形で市民を中心に据えた。 部に反対する者さえ他の部分に協力することが自己の利 大規模な市民集会から協議地区における公開討論につき 益になるような状況を積極的に追求した。 上で述べたよう ものの決まった作業に至るまで、 単に長所を述べ立てるだ に、そうした姿勢はすでに六大事業の選択に影響を及ぼし けになりがちな考え方が、 困難で持続的な変革の中で利 ている ― それぞれが確実に協調体制を支援するよう図る 用された。 ことで、ある参加者が少なく とも一つのプロジェクトを支援 現在の考え方と類似する点・変わらない点– 時間の経過に できる可能性が高まったのである。 一例として、港とその周 よって、決まって繰り返された作業の詳細や、 障害を表面化 辺の産業が移転にどれほど抵抗しても、 幹線道路網とベイ し解決した正確な方法など、 この部局が行ったプロセスを ブリッジはそうした業界にとっ て重要な実現要因であり、 事細かに再現することは難しくなっ ている。それにもかかわ 物資を内地へ輸送するコストを大幅に削減することにな らず、わかっていることは「再帰的実行」 、「問題主導型の る。そのため行政はこうした利権者を説得し、 幹線道路の 反復適用」 といった類のモデルの考え方に驚くほど似てい 資金を獲得するよう国会議員に圧力をかけさせることがで ることである10。類似点には、繰り返し問題を表面化させる きた。逆に、 不動産開発業者は郊外開発に関する規制と港 (「上げる」)、当局へ訴えるというめったに利用されない 北ニュータウンへの集中に反対するかもしれない一方、 中 が信頼できる手段によっ て障害を取り除く(「罰の設定」) 心部の不動産価値の上昇と開発用地の増加につながる市 、反復のリズムと見直しの受け入れひいては歓迎、 行政内 街地の移転には賛成することになる。 実施期間を通し、 行 であれ人々の間であれ強く意識された問題から始めること 政は反対者と支持者をきっちり分けることなく積極的に新 たな協力者を求めた。 10 (Sabel & Jordan, 2014) (Andrews, Pritchett, & Woolcock, 2017) 11 (Masaki, 1965) 13 労使と大気汚染の抱き合わせなど、 単一課題をめぐる交 慎重な人材採用により政府とのパイプを確保。 田村は、横 渉を多面的な討議に変える– 飛鳥田市長の基盤は労働運 浜市に加わった直後、建設省(公共事業省に相当) の最も 動にあり、普段、その結びつきを議論の手段や交渉の舞台 有望な若手職員を引き抜いた。その若手職員は横浜出身 を用意するために使用していた。 例えば、 鉄道や工業など で、エリート官僚の伝統的な養成機関である東京大学法 主要な雇用主が難しい労使交渉を繰り広げている場合、 学部をトップクラスの成績で卒業していた。その職員がも 市長は、そうした問題を公開討論に組み入れ、 労働者の懸 たらした人脈と受ける敬意により、田村は重要な局面で政 念と企業の影響をより広く議論するよう提案した。 このよ 府高官とやりとりをする非公式な経路を獲得した。 このよ うな議論は自然な流れとして、 当時市で進みつつあった経 うな人事を実行することは口で言うほど簡単ではない。 そ 済的・物理的再編成をめぐる議論につながった。 議論で到 れが可能になったのは、多くの若手職員が横浜で新しい刺 達した合意は、その後、コンプライアンスを支える全体的 激的なことが起こりつつあるという感覚を抱いていたこと、 な取り決めとしての重みを持った。 例えば、 日本で大気汚 そのような可能性の感覚を市民としての誇りを高めること 染防止法が成立したのは1968年になっ てからである。 し につなげることで結果的に有効な採用ツールになったこと かし、飛鳥田が就任後まもなく この手法を利用して重工業 である。 と結んだ公害防止協定には、 同業界が早期に大気汚染削 減に投資することが含まれていた。 法律がないため、 協定 象徴的な機会を生むことで可能性の感覚を変える– 田村 の順守は難しいとも思われたが、 産業界には、 違反すれば が市政に加わっ て最初に行ったことは、 古くからの都心に 広い範囲の合意が台無しになり、 それが労使対立を再燃さ 高架で通す計画になっ ていた高速道路を地下トンネルに せ、結局は自分たちにとって高く つく ことがわかっ ていた。 するという変更だった。 高架道路の資金は市ではなく国と 県から出ていた。 そのため、市当局はこれを既成事実と捉 国の法令や規則における曖昧さを積極的に見つけ、 利用 え、 ほぼ動かせないものと考えていた。 しかし田村は、高 する–市政は曖昧な領域を探し出し、 それと新しい独創的 架道路は地域構造を破壊するため、 迂回させなければな な政策手段を合致させようとした。 いく つかの例は上です らないと考えた。 上で述べたありとあらゆる技法を駆使し でに述べた―「市街地環境設計制度」 と呼ばれるインセン て広範なキャンペーンを実施し ― これが建設局の若手職 ティブを設けた建築規制を含む 「横浜方式」 、市民参加型 員を引き抜いた際のポイントだった―、 最終的に計画を見 の計画立案のための「まちづくり協議地区」 (上記を参照) 直しに持ち込むことに成功した。 留意したいのは、これが などである。ただし、おそらく最も驚く べき事例は、 「行政 1960年代半ばという、コミュニティ構造に対する高架道 指導」として発行された準法令である。 これについては囲 路の危険性がまだ一般に知られていない時代だったこと、 み1で詳しく述べる。 プロジェクトの規模が (大規模なトンネル工事とは異なり) 比較的小さかったことである。 最も重要なのは、インタビュ 交渉における忍耐と粘り強さ–市は、 既得権者へ対処する ーで二人のオブザーバーが別々にこの一件をその象徴性、 際には、説得、 対立、粘り強さを織り交ぜて繰り返し交渉 そしてそれが職員に伝えたメッセージ ― 最大の計画でも にあたった。 例えば、市は日本最大級の造船企業を説得し 見直しは可能であること、 こうしたプロジェクトについても て造船所を移転させた。 市は新都心を創設するために、 そ 市の未来を市民と行政が自ら掌握することは可能であるこ の中心部の区画が必要だった。 しかし、1960年代、港湾 と ― によって記憶に残る出来事として思い起こしたことで 関係産業は日本の高度経済成長を支える中心的な役割を ある。 果たしていたため、 当時の造船会社は日本政府からさまざ まな支援を得て国全体に大きな権力をふるっ ていた。その 上、市の自治権は現在に比べてはるかに小さく、 予算も限ら れていた。そのため市は、 補償費用を支払わずに造船所が 自発的に移転するよう誘導し、 同社と港湾関係の経済活動 を市内の別の地区につなぎ留めておく必要があった。 細心 の注意を要する交渉を同社と始める前に、 市は近郊地域に 大規模な工業用地を埋め立てて造成する決定を行い、 移 転用地を確保した。 市はまた、 移転用地の大きさや条件に 関する同社の要望に対し、 こうした要望が造船ブームの経 済的変化、 石油危機、 不景気を受けて二転三転したにもか かわらず、粘り強く応えた。 市の各部局も移転に向けて団 結した。港湾局は、 同社の圧倒的な影響力を前に、 なかな か同社の要望を拒否することはできなかったが、 同時に、 市は同社に対し、 既存の造船所の面積を少しでも拡大する ことは許さなかった。 市の粘り強い姿勢を目の当たりにし た重工業の巨大企業は、 移転は避けられないと真剣に考 え始めた。10年にわたる市の粘り強い交渉を経て、 ついに 同社は新たな埋め立て地の区画を購入し、 都心から造船所 を移転させることに同意した。 その代わり、 移転費用の一 部埋め合わせとして、 同社は都心の一等地の一区画を維持 することができた。 14 特集:行政指導とは 「行政指導」という語は、 政府内の内部規則を記述するた その後、 市はこの協定の内容を一般化し、大規模な不動産 めに今日でも使用されている文書を意味する。 しかし飛鳥 開発全般を対象とする 「行政指導」を発行した。例えばこ 田市政は、これを市に対する規制の形態として使えると判 の方法は、 新横浜周辺地区(以下を参照)が東京のベッド 断した。つまり、このような指導の形で、ただし市政以外に タウンにならないよう、 最大容積率を定めるために使われ 適用される内容を持った文書を発行することで、 事実上、 た。二者間協定以外では、 業界一般による遵守はばらばら 法的には曖昧ながら、 形式的な構造に根差し、かつ行政に で、多くの指導文書に対して異議が唱えられ、 敗訴に終わ のみ利用できる新たな手段を生み出すことができた。 っている。 市がただこのような 「指導」を発表し、それを強制的に執行 それでも、最大の当時者がすでに条件に合意し、 市のビジ したとすれば、 せいぜい効果がないか、 悪くすれば有害に ョンの説得力ある説明を受けて一定数の企業が市民として なるだろう。そのため、こうした指導は、 行政が関連分野に の当事者意識から遵守し、 他にも恐れから遵守する企業 おける最も重要な民間セクター (または準民間セクター) があれば、 遵守しない企業の数は容認することができ、 以 の当事者とその内容をめぐっ て交渉し、決着がついた後に 前の状態からすれば改善されたと言える。 結局1990年代 発行された。 より具体的には、 市と当事者が双方合意に達 後半には、行政文書の適用は内部に限られることが国の してから、その合意の条件を行政文書に一般化するという 法令によっ て明確にされ、このような使い方はできなくなっ ことである。 た。その頃までに、 横浜の行政指導文書にまとめられた原 則、考え、さらには具体的な規則の多くが国の法律に組み 例えば、当時は鉄道が日本最大の住宅開発業者で、 路線 込まれていた。 しかし、民間セクターと市民社会への多面 沿いに住宅を建設していた。 東急電鉄が新線(田園都市 的な関与、 市民の福祉の重視から、 討議を通した基準の共 線)を建設するとともに沿線に多数の住宅を建設した際、 同設定と問題解決、 独創性へという発展において、 「行政 市は同社に対し、その地区に小学校を作るための費用の 指導」は横浜方式の典型的なツールになった。 相当部分を負担してもらうよう交渉した。 同様に、市は他 の鉄道会社とも、 沿線開発に際した床面積その他の空間 規制をめぐって交渉した。 大気汚染をめぐる交渉について は、飛鳥田は鉄道組合と話し合うことで交渉の糸口をつか み、それによって遵守のためのインセンティブを加えた。 評価 の生産性の高さを誇る12。 重工業も存続した。例えば、造 船所は現在も操業を続けており、 より価値の高い活動へ移 行している ― 三菱重工は今年、 同地での船舶設計事業す ビジョンの実現–六大事業はその規模に見合った期間を要 べてを新たな 「船舶・海洋技術統括センター」 に統合する したが、すべて完了した。 港は移転し、市の中心部は再編 ことを決定した。 しかし、市は現在も、これまでの長年も、 成された。 北部に住宅地、南部に工業地帯が建設された。 造船から独立してはいない。 橋、高速道路、 地下鉄が完成した。 全体として、田村のビ ジョンは実現した。 市は単に生き残っただけでなく、 1970 成長の新たな原動力–市の中心部はサービス ・文化活動に 年代と1980年代に港と重工業の重要性が衰えてもますま おける成長の原動力となった。 東京からあふれ出た人々は す力強く成長した。 おそらく、国際的な金融拠点ではなか 負債ではなく資産となった。 こうした人々はまず港北ニュー った他の大規模港のどのく らいが港への依存から何とか タウンに流れ込み、首都とは異なる生活の質を求める高所 脱却して再編成できたかを考えることは有益だろう。 例え 得の住人を引き付けたのである。 住宅地のスプロール化で ば、多くの点で誇りを持っ ているシンガポールさえ、 基本的 拡大した市の北部は、1980年代に日本の電子機器製造の に商品取引事業である港でのコンテナの積み替えに今な 中心地となり、やがて都心と地下鉄で結ばれた新幹線の駅 お依存している。 欧米で見られる都市衰退の事例の多く を中心として新たな経済の結節点が形成された。 南部の は、かつての横浜のプロフィールにぴたりと一致する。 大都 金沢地区は、新たな大学 (横浜市立大学) に加え、北部の 市圏の近くまたはその一部に港を基盤とする重工業が集 京浜工業地帯に次いで2番目に産業活動が密集した地域 中し、こうした港と重工業が時代から取り残されると、 それ になった。こうした地域ごとの変化は線形輸送プロジェク らに依存していた市もゴーストタウンになったのである。 トに負うところが非常に大きかった。 ベイブリッジがなけれ ば、たとえ造船所と港が移転しても都心は交通渋滞に悩ま 産業発展の方向転換–プロジェクトの完了は市の成長のダ されていただろう。地下鉄網がなければ、 港北ニュータウ イナミクスを変えた。港はコンテナ輸送の波にうまく乗り、 ンは魅力に乏しかったかもしれず、 後に半導体クラスター 現在のコンテナ取扱量は年間約300万個と、世界でも有数 12 https://www.joc.com/port-news/port-productivity/chinese- ports-lead-world-berth-productivity-joc-group-inc-data- shows_20140624.html 15 が発展することもなかっただろう。高速道路網がなければ (常に) 難しい帰属の問題–飛鳥田時代の成果を、 横浜を 産業移転が座礁したり、工場が競争力を失ったりしていた 形成した外部からの影響と完全に切り離すのは、 不可能と かもしれない。その後数十年におけるこうした発展、特に は言わないまでも困難である。 同時代における日本の国家 中心地の発展には多少差があったが、 全体として市は、六 経済の急激な変化および東京の急速な成長と発展が追い 大事業をすべて完了させた実行能力を通し、 従来の比較優 風となったことは疑いない。 それでも、東京周辺に他にも 位を犠牲にしたり無視したりすることなく、新たな比較優 多数の都市があることは見てわかる。 例えば川崎は、 実は 位を構築することに成功した。 横浜より首都に近く、 現在、 企業から見た立地としての人 気の高さは横浜と川崎でほぼ同じであることから、 それぞ 膨大な人口の流入で収入が着々と増加–1960年代半ば以 れに固有の優位性には大差がないことがわかる。 もう一つ 降の数十年で横浜の人口は2倍以上に膨れ上がり、 1995 比較をするなら神戸である。 東京からは離れているため、 年には330万人に達した。 工業と港という市の伝統的な強 同じく らいの速度で規模が拡大すると期待するのは理に みが徐々にその重要性を失い、 急速な成長の巻き返しに 適わないが、 多く の点で横浜に似ている。 神戸も同じく日 対する追い風と人口爆発が鈍化しつつある中、 市は急成長 本初の開港場に数えられ、 やはり20世紀初めの産業化の を維持していた。 市の1975~1995年の平均賃金は(名目 先頭に立っ ていた。 ただ、 1995年の震災まで、神戸は横浜 上)2倍以上の伸びを記録し、 人口当たりの実質市民総生 が1960年代に成し遂げたものに匹敵する規模の変革を試 産(GCP)は50%以上増加した (図4) 。 みてはおらず、 1990年代には横浜よりはるかに重工業、 低 価値の製造業、 港に依存していた。 図4:六大事業時代後30年間の成長 12  000 1975 1985 1995 10  000 8  000 6  000 4  000 2  000 0 Jobs Avg wage GDP per GDP (k) (JPY k) capita (JPY k) (JPY bn) 出典:県民経済計算、日本内閣府 16 新都市:1986~2010年 みなとみらい21地区 クタールの中央地区は、 総面積の76%を占め、 MM21の中 核を成している。重要なのは、 MM21の当初の構想が110 ヘクタールと、はるかに(40%近く) 小規模だったことであ 論拠:古くからの市の中心部を都心に統合する–埋め立て る。これほどの大幅な拡大は、 1980年代初めに決定され により、(後にみなとみらい21と呼ばれる) 大規模な中心 た。埋め立てには多額の補助金が下りた。 日本の景気拡大 部を創成するというアイデアは、 1965年にスタートした 「 はその頂点に差し掛かっ ており、多く の都市が大規模な埋 六大事業」 に含まれていた。 飛鳥田市長と田村氏は、 現在 め立てプロジェクトの規模を拡大しているようだった (例 のMM21の場所にあり、 その当時は市街地を二つに分けて えば、同じ時期に神戸は 「新ポートアイランド」 第2期工事 いた(関内と横浜駅、 図5)広大な造船所を移転させたい という、横浜よりはるかに大規模な埋め立てに着手してい と考えた。 その後、土地区画整理を経て、 MM21と呼ばれ る。)埋め立てと土地区画整理は1983年に始まり、 その後 る「新都市」 により、元は二つに分かれていた地区が接続、 8年間に及んだため、プロジェクトは日本のバブル崩壊後の 統合された。 これらの地区が合わさっ て新たな都心を形 「失われた10年」に逆行して進められる形となった。 成することになったのである。 実質的な経済活動の計画を 備えた都心を創成することで、 市が 「国際文化管理都市」 ― 飛鳥田と田村の用語で、 高付加価値の活動と高い生活 30年後、ある程度成功するも需要は停滞。 「新 MM21は、 の質を備える外に向かっ て開かれた都市を指す ― になれ 都市」開発にありがちな運命、 「ゴーストシティ」 になるの るのではないかと期待された。 を免れた。 現在、面積の約3/4(73.1%) が開発され、そう したビルの空室率は低い (10%未満) 。一方、この地区には 過大化の傾向がある時代に、 規模を大幅に拡大。 みなと 重要な強みがある ― 世界最大の都市圏における大都市 みらい21( [世紀] 「未来の港21 」 )の面積は186ヘクター の中心部だということである。 比較として、 ロンドン東部の ル(186万平方メートル) である。ビジネス街である141ヘ カナリーワー フおよびニューヨーク大都市圏のジャージー 図5:みなとみらい埋め立て地と以前の用途   出典:横浜市提供(左)、横浜市提供資料 みなとみらい21インフォメーション vol.88 P.14 基盤整備図 に著者加筆(右) 17 シティと並べてみるとよくわかるだろう。 3つのプロジェク 遅いスタート で大規模化し、 重要な第1フェーズに不景気に トはいずれも都市の荒廃したウォーター フロント地域を活 直面。 開発プロジェクトの第1フェーズは非常に重要であ 性化する目的で実行され、 開発規模やスケジュールも似通 る。 引き付けられるテナントと投資家のタイプが、 プロジェ っていた。3件とも、オフィススペース、小売店、住宅、 公共 クトの市場におけるポジションおよび価値を定め、 それが のオープンスペース(公園など)を取り混ぜた開発に重点を 続くフェーズにおける資金調達や輸送インフラの向上を決 置いた。現在ではそれぞれが約10万件の雇用を維持して 定するからである14。 MM21の最初の数年は、 日本の資産 いる。MM21の雇用は本社、R&D、小売、観光に集中し、 価格バブル崩壊の余波をまともに受け、 不動産の需要と価 カナリーワーフでは金融サービス、 ジャージーシティでは 格が落ち込んでいた。 同地区には、 国際会議場と1993年 高価値のバックオフィス機能が中心となっ ている(表1)。 開業の横浜ランドマークタワーを含め、 少数の主要な 「ア ンカーテナント」 があった。 しかしこのような広大な用地 需要はどこに?– MM21の成績が振るわない部分は、 需 に、(その当時) 1キロ以上続く空き地に等しい空間に隔て 要の伸びである。 カナリーワー フの用地の大部分は1990 られて点在するのでは、 凝集した経済圏を形成したり企業 年代までに建設が終了した。 同じ時期のMM21では、 主 がひしめく状態を生み出したりすることはできなかった。 要なオフィスビルはあまり建てられていなかった。 カナリ 対照として注目したいのは、 カナリーワーフの中心的なビジ ーワーフのオフィスは 「グレードA」 を獲得し、 10~20年で ネス街の規模がおよそ40ヘクタールとMM21の用地面積 一定の需要を満たした他、 事実上ロンドン第2の金融の中 の1/4に満たず、そのため最初の数棟が生んだ密度や連帯 心地となったのに対し、 MM21は停滞しているように見え 感がはるかに大きかったことである。 全体として、実際とは た。MM21が始動したのは、 2009年に日産が本社をこの 異なる状況を検討してみると示唆的である。 仮にMM21を 地区に移転し、 2010年に富士ゼロックスがR&D施設を 当初の規模で実行し、 1990年代初めではなく1980年代 開設してからのことである。 MM21の主なテナントタイプ 後半に整備を完了し、 最初から密度と連帯感が得られてい は、東京と競合するというより東京を補完するものとなっ たら、 MM21は今日よりも成功していたのではないだろう ており、R&Dおよび重工業の企業が中心である。 ただし、 か? 必ずしもこれを問題視する必要はない。 以下で述べるよう に、R&Dや設計部門に対する本社の効果は誇張されてい る可能性があるからである。 また、 2010年より前はMM21 の多くの活動が目減りし、 「創出された」 雇用は単に関内 地区の古いオフィスから移転してきた企業によるものだっ たと議論されてきた13。 これは一部正しいかもしれないが、 関内地区のオフィスは比較的小さなものあることを踏まえ ると、この主張の強みには疑問が生じる。 14 例えば、第1フェーズの空室率が高すぎる場合、地下鉄など輸送イン フラの向上や拡大に追加資金を投入することは正当化されない。 そ れによって、「約束された」主要インフラが予定通りに整備されなけれ 13 (Blakeney, 2010) ば、続く開発フェーズにおける悪循環を生む。 18 表1:MM21、カナリーワーフ、ジャージーシティの比較: 横浜市、  ロンドン東部、  ニューヨーク大都市圏、ジャー みなとみらい21 カナリーワーフ ジーシティ中心街 用地面積 186万平方メートル 195万平方メートル 580万平方メートル 完成した建設ス 75万平方メートル 140万平方メートル完成 150万平方メートル完成 ペース 計画された建設 さらに12万平方メートルが計画 さらに49万平方メートルが計画 さらに68万平方メートルが計画 スペース された された された 土地利用/機能 オフィス(フロント&バックオフ オフィス(フロントオフィス)、小 オフィス(バックオフィス)、小 ィス)、小売、住宅 売、住宅 売、住宅、公園 主な開発業者 UR都市機構(土地区画整理) 、 ロンドン・ ドックランズ、オリンピ ルーフラック社、クシュナー社 横浜市(埋め立て)、港湾局、日 ア ・アンド・ ヨーク、地区議会、ロ 本政府 ンドン市(手頃な価格の住宅と 地下鉄への共同出資) 雇用/人口 102,000 105,000 84,072 開発率 73.1% 約100%(実質的に空き地は残 約100%(実質的に空き地は残 っていない) っていない) 中心的なテナ 主にR&D、企業(主として支社、 主に金融・ビジネスサービスの 金融・ビジネスサービス企業お ント 本社も出現しつつある) 日産、三 本社(バークレイズ、 シティグル よび運輸・航空企業のバックオ 菱重工業、千代田、 JGC、シン ープ、ムーディーズ、モルガン・ フィス(と一部本社)(UBS、JP クロン スタンレー、S&Pグローバルな モルガン ・チェースなど) ど) 政府が提示した 地方税控除(最初の5年間は固 地方税控除、投資家に対する資 事業税のインセンティブ、 製造 インセンティブ 定資産税と都市計画税が半額) 本控除 保持・SME・テクノロジー・イノ 、投資家に対する資本控除 ベーションなど優先分野に対す る多様な融資と補助金 出典:文献検索 横浜市 「みなとみらい21地区事業の概要」 からの抜粋、 “Financial News London”、 “Canary Wharf: An Establishment of a Major Business District” (2005)、Carolina HerlingとCaroline Liljedahlによる修士論文、 Royal Institute of Technology Stockholm、 “Wa- terfront Access and Downtown Circulation Study” (2007)、 ジャージーシティ市、 http://www.city.yokohama.lg.jp/keizai/yuchi/support/ プロジェクトは特別目的事業体によっ て弱体化されたが、 埋め立て部分のみによるもので、 プロジェクトの総コストに 長期的には財政的歯止めになった可能性がある。 多くの 占める割合は小さい。 残りは国の補助金、 港湾局やUR都 都市再開発プロジェクトと同様、 MM21の運勢は、マクロ 市機構を通して賄われた。 これによって他に可能性のある 経済サイ クルが実業界と不動産業界に打撃を与えるに従 国の補助金が締め出されたかどうかは不明である。 それど い(しかもこの二つは深い相関関係にあることが多い) 、 ころか、全体的な財政構造、 総コスト、債務負担は今日で この30年間で変動した。 MM21では需要が期待を下回っ もいささか不透明で、 全貌を明らかにすることは難しい。 た際の地域への財政的影響は大きかったが、 カナリーワ 実際、プロジェクトによっ て市が図書館や学校などの施設 ーフとジャージーシティでは民間セクターが開発リスクの に対する投資を切り詰めなければならなかったという主張 かなりの部分を共有していたため、 影響はそれほどでもな がなされており、 一部の測定基準によれば、 確かに市では かった。 実際、 カナリーワーフの主要開発業者であるオリ 人口当たりの施設数が日本最低レベルである (図6)。それ ンピア ・アンド・ヨークは1990年代前半に倒産し、 再編さ でもMM21とこうした投資不足の因果関係を立証すること れる羽目になった。 都市再開発プロジェクトを組み立てる は容易ではなく、 事実プロジェクトは大幅に市の税収を増 際、公的機関にとっ て「最悪の場合」 を想定し評価するこ やした。ただ少なく とも、MM21の規模が大きすぎたこと とは欠かせない。 つまり多く の場合、景気が底を打った場 で、市の財政面での自由が短期的に制限された可能性は 合に、 基本的なサービスに打撃を与えないよう他にどのよ 高い。 うな任意の社会的・公的支出を削減できるか、 計画を立て ておかなければならないということである。 市にとって債 務返済の負担が重すぎ、 プロジェクトがうまく行かないた めに基本的な公共サービスを中断せざるを得なくなっ てい たら、 市はプロジェクトを進められなかっただろう。 横浜 とMM21の場合、 債務返済費用は法外なものではなかっ た(表2) ― 20年間で840億円すなわち10億米ドル足ら ず、1年あたりにすると50億円未満である。 ただし、 これは 19 表2:みなとみらい21埋め立て地のプロジェクト費用(10億円) 支出 プロジェクト費用 収入 プロジェクト収入 建設費用 97.0 土地の販売 156.0 借地権の販売 30.7 補償費用 40.2 土地の賃貸 8.3 管理費用 13.6 その他 30.4 債務元払いコスト 84.3 同じ収支計算の別プロジェクトによる利益からの割り当て 9.7 総支出 235.1 総収入 235.1 出典:第3次中期財政プラン「埋立事業会計」、横浜市港湾局、2010年 図6:日本の諸都市における人口1万人あたりの く)わずかしか発展しなかった。 1981年、駅周辺の企業の 学校数 従業員は4,000人に過ぎず、1986年でも7,000人を超える 0 0,5 1 1,5 2 2,5 3 3,5 4 程度だった。 唯一の活動は、 当時成長の頂点を迎えつつあ った日本の電子機器メーカー数社が同地域に工場を設立 浜松 したことだった。 それでも、当時都市整備を担当していた 富山 北九州 職員の一人が振り返っ て言うように、 1980年代初期のこの 岡山 地域はまだ「キャベツ畑ばかり」 だったのである。 静岡 広島 ベッドタウン化を避ける– 新幹線の駅の周辺が必ずしも発 仙台 展するわけではないが、 新横浜がなかなか発展しないのは 熊本 いくぶん不思議だった。 東京都心まで新幹線でわずか20 新潟 京都 分と、都内の大部分の地域から地下鉄を使うよりも近い。 千葉 東京の不動産価格が本格的に高騰するのは1986年以降 神戸 だが、新横浜駅開業からの20年間、 首都ではなお人口増 名古屋 加と経済成長が盛んだった。 そのため、新横浜周辺で集合 大阪 住宅やその他の住宅を開発すれば、 高い収益が得られた 福岡 札幌 と思われる。 なぜそうならなかったのかは不明である。 当 堺 時の当局者に尋ねたところ、 上で述べた 「行政指導」 を利 相模原 用した同地域の住宅用の容積率規制が要因として挙がっ 埼玉 た。もう一つ考えられる説明は、 港北ニュータウンが新横 横浜 浜に対する一種の 「盾」として機能し、 東京からあふれ出 川崎 た住民 ― 港北ニュータウンがなければ新横浜に集中した (政府統計の総合窓口) 出典:e-Stat はずの住民 ― を吸収したというものである。 「ニュータウ ン」では当時も今も小売・商業・ 文化活動が活発で、 地理 的には新横浜より東京に近い。 「ニュータウン」で利用でき 新横浜 たインセンティブを設けた建築規制も合わせ、 こうした利 点が、新幹線の駅の魅力を上回ったのかもしれない。 こう やや街はずれにある駅–1960年代前半、日本政府は世界 した理由はいずれも結局は推測の域を出ないが、 どちらも 初の高速列車(新幹線)の完成を急いでいた。 東京と大阪 その根が「六大事業」 にあることは注目に値するかもしれ を結ぶ路線で、横浜に停車駅を設ける計画である。 市は同 ない。 路線が既存の横浜駅を通るよう希望したが、 1964年のオ 地下鉄の駅、 そして競技場–この地域が本格的に変わり始 リンピック前に開通させることがとにかく必要不可欠だっ めるのは1980年代半ばである。 1985年に新横浜に地下 たため、路線はできる限り直線で、 かつ最短工期で建設 鉄の駅が開業し、 横浜駅および人口の集中する港北の住宅 しなければならなかった。結果として駅が置かれたのは、 地までが短時間で結ばれた。 その後1989年には新横浜地 当時は農地が大半を占める地域で、 市の中心部 (横浜駅 区内に横浜アリーナという大型ホールがオー プンし、 多数の 周辺)と、主に東京から流出した人口を収容する郊外の住 コンサートや集会が開催されるようになった。 また、 1998 宅地からなる後の港北ニュータウンとのほぼ中間地点だっ 年には隣接する大規模公園内に横浜国際総合競技場がオ た。駅は「新横浜」と命名された。 ープンし、後の2002年にはワールドカッ プの決勝戦がここ キャベツ畑と数軒の工場–1964~1986年、この地域は で開催された (図7)。1980年代後半は東京で土地価格 新横浜駅前の80ヘクタールの区画整理事業が行われた が高騰していた時代でもあり、 その結果、 多く の企業が首 が、 (資料によると新幹線の駅周辺のパターンとしては珍し 都以外に移転先を求めた。 以上により、 1986~1991年の 20 間に企業数と従業員数はいずれも3倍に増え、従業員数は 図8:新横浜の雇用数の増加 25,000人近くに達した。 60  000 図7:新横浜地区の地図 50  000 40  000 30  000 20  000 10  000 0 1978 1981 1986 1991 1996 2001 2006 2009 2014 出典:横浜市の事業所数 クラスターの発展– 半導体企業はこの状況の中でも際立っ ている。 そのうちの1社、 マクニカは世界有数の半導体販売 業者となった。 2000年に上場したマクニカは、 この3年は 年率平均25%で収益を増加させ15、 同地域におけるオフィ ス面積は第2ビルの取得で2倍になった。 この地域にはさま ざまな半導体設計企業も集まっ ており、 規模も中小企業か 出典:「新横浜都心整備基本構想」パンフレット(1999)をもとに著者 ら(ARMを含めた) 世界最大級までと幅広い。 また同地域 作成 には、コンピュータによる設計の自動化 (EDA)ツールを提 供する有数の企業 (半導体企業が新たなチッ プの設計に 半導体企業の増加–とりわけ、 半導体関連企業のクラスタ 使用するソフトウェアを製造する) が日本支社を置いてい ーは設計と流通の両方で根を下ろした。 こうした企業のう る。STARC(半導体理工学研究センター) という、 半導体 ち数社は1970年代前半にすでに横浜で創業していたが、 設計企業と研究機関の共同企業体が本拠地としていたの この数社が早期に活動を開始した要因、 その後数十年に もこの地である。 STARCは2016年に解散され、 そのEDA わたって拡大しなかった、 または分散していた理由は不明 関連の知的財産は公有財産に移転された。 その一方、 結び である。また、 新横浜地区に集まり始めた理由もよくわか つきの強いクラスターの特徴である日常の反復的な相互交 らない。しかしながら、 半導体は高度なスキルと高い付加 流がどれだけこの地域に形成されているかは不明である。 価値を備えつつ、 周期性もある産業で、要求の高い顧客と 例えば、 流通企業と設計企業の間ではそれほど相互交流 新たな研究に常にアクセスできる必要があった。 そのため があるようには見えなかった。 また、 同地域のIT企業名簿 同業界は、大きな価値を引き出しつつ、 その代価を支払う には質も規模も極めて多様な企業が混在し、 中には小さな (東京都心へのすばやいアクセスを確保する) 強い傾向が ウェブ開発会社以上には見えないものも多数含まれてい あった。そのため新幹線は、 それ以前の数十年で同地域に るようである。 これを典型とみなすことはできないが、 企業 設立された電子機器メーカーの工場が近いことと同様、 他 の質に関する情報収集を仲介しうる地域の団体や一連の の産業よりも半導体産業にとっ て魅力が大きかった可能性 組織がないことは示されている。 同じ理由で、 この地域の がある。 半導体関連企業の性質と規模に関するしっかりした統計 を確立することも難しい。 以上から最も理に適った推測を 「失われた10年」 を通しての成長–1990年代、 みなとみら するなら、 「この地域には企業が集積し、 その多くは協力し いがテナントの誘致に苦戦し、 国の経済がバブル崩壊後の たり、場合によっ てはその協力体制を制度化したりしている 「失われた10年」 に苦しみ、東京の土地価格の高騰が終焉 が、テクノロジーの最先端を行くクラスターを特徴づける した一方で、新横浜は成長を続けた。 クリティカルマスに達 高度に組織化された密なネットワークのタイプを十分に実 した後、その際立っ て恵まれた立地とインフラの戦略的な 現する見込みはまだある」 ということになる。 組み合わせにより、 新横浜地域は(国内でとは言わないま でも)市内では珍しく力強い成長を見せた。 1991~2001 強力な資産のある地域における触媒作用をもたらす介入 年で企業数はほぼ倍増し、 従業員数は1.6~1.7倍の4万人 の例– 半導体クラスターが「本物のクラスター」なのか否 近くに膨れ上がった。 この成長は2000年代には鈍化した か、またはその程度に関係なく、 新横浜地区は成功例に ものの継続し、 2009年には雇用件数が約5万5,000件に 違いない。 新たなクラスターを形成しようとして諸都市が なっている(図8) 。 行う投資に比べると、 新横浜の投資はささやかなものだっ た。それどころか、 コストがかかっていないという主張さえ 15 2012年の19億円から2015年の34億円へ。 21 あるかもしれない ― 地下鉄の駅は他の理由で計画された 路線上にあり、横浜の市街と新幹線を接続するという独自 の動機があった。巨大スタジアムの経済的価値を議論せ ずとも、その論拠は新横浜の発展にほとんど関係がなかっ たと思われ、同地区の計画に関係なく建設されていただろ う。最も目的のはっきりした行動は、 最初の20年間に住宅 地の拡大を制限したことだったと思われる。 これによって一 種の局地的な「後発性利益」 がもたらされた ― 土地価格 の低さと主要産業の顧客の存在により、 地下鉄と競技場の 開業で不足していた材料が揃ったときに成長が始まったの である。そして成長は、 非常に厳しいマクロ環境を通して、 公共投資と派手な宣伝の点では勝る市内の他の地域が苦 戦している時期にも持続した。 現在、同地域に拠点を置く 一群の企業が属するのは、 突出して要求が高い最前線レ ベルのサブセクターであり、 別の地域で行われた産業振興 策が振るわなかった分野である。 この地域は、 規模はささ やかかもしれないが、 大きすぎる規模と力の入った振興策 が期待外れに終わる可能性のある領域で、 少数の高度に 戦略的な介入が持つ可能性と、 それが新たな何かを本当に 生み出せる能力を見事に実証した例であり、 対照的な例で ある。 22 迫り来る危機:2015年~ 高齢化が進む都市– 横浜の人口は数十年にわたっ て増加 とって様々な面でメリットがある大規模な本社の誘致であ し続けたが、まもなく減少に転じる見込みである。 65歳以 る。こうした投資家誘致は、補助金の活用に大きく左右さ 上人口の割合は30%近くに増え、今から2030年までの間 れる可能性があるとともに、税の重要性をめぐる問いが浮 に数十万人が定年を迎える。 この問題が特に厳しくなると かぶ。いくつかの企業は、従業員が払う税金と建物を占有 予想される工業セクターおよび中小企業セクターでは、 創 することで発生する固定資産税が、 企業が市に払う法人税 業者/所有者および熟練した年長の生産労働者が定年に より少なくとも桁違いに大きかったと話した。 近づいているが、若者は両親の跡を継ぎたいと思っ ていな い。一部では人口の減少がすでに起こっ ており、 南部を中 国家プロジェクトの獲得と実施を重視–市はまた、 国の 「 心に市内の住宅の10%は現在空いていると推定される。 環境未来都市」構想に対応した、 「環境未来都市」 計画を 人口動態については、 市内の機関のいくつかが生涯学習に 立案した。これは、国家プログラムからの支援を組み込 関するプログラムを設けている ― 例えば横浜市立大学に み、進行中の複数の実証プロジェクトを掘り下げたもので は一連のシニア向け講座が用意されている。 しかし、 市全 ある。その中には、「スマートグリッド」、「スマートシティ」 体としてまとめた計画では、 高齢者に関する支出(交通費 および関連プログラムに関わるプロジェクト数件、 さらに「 補助など)を抑えようという姿勢を打ち出している。 また、 スマートビジネス協議会」 もある。ただし後者は、 もともと 適切な再教育や就職斡旋プログラムなど、 仕事を続けたい 大企業が国家の実証プロジェクトに入札するために構成し 高齢者の職業人生を延長するためにどのようなプログラム たコンソーシアムをベースに立ち上げたものである。 もちろ が存在するのかも不明である。 中小企業主の退職の影響 ん、地域の優先課題を追求するために利用できる国の資 を緩和するためのプログラム作りを進めているのか、 利益 金を活用することは往々にして有益であり、 国家プログラ 率を向上させるよう環境を改善しようとしているのかも、 ムはそれがなければ目を向けることもなかっただろう機会 企業税制を考えれば財政上のメリットは大きいだろうが、 に地方自治体が注目するよう促すことも多い。 地方自治体 やはりはっきりしなかった。 は、あらかじめプロジェクトが特定されている分野で、 自分 たちが実施したい地域プロジェクトに資金と政策支援を合 産業の変革– 同時に、新たな自動車技術 ― 自動運転車お わせる方法を考案するよう求められることが多い。 うまく行 よび電気自動車や水素自動車 ― の到来によっ て、横浜と けば、地域の問題と機会を金銭的支援獲得の可能性に一 周辺地域における多く のサブセクターはそれらに適応する 致させることで問題解決が進む。 ただ場合によっ ては、ど 能力をおおいに求められるだろう。 そうしたセクターが依 の資金が利用できるかを重視するあまり、 地域の問題は考 然として重要な位置を占める横浜経済では、 製造業が全 慮されるにしても二の次となるリスクがある。 多くの国家資 体として雇用の14%を占め、他の業界で製造業に依存する 金を利用できる環境では、 リスクを回避するよう用心する 企業は数知れない16。同時に、そうした業界では自動化の 必要がある。 増加や積層造形技術の可能性など製造プロセスにおける 根本的な変化が進行中であり、 今後も進行するだろう。 一 充実した能力基盤は吉兆–とはいえ、 迫り来る危機にもか 方、これらは事業主の定年退職や労働力の老化に関わる かわらず、 市には依然として並外れた強みがある。 そのいく 課題をある程度は克服するのに役立つかもしれないが、 雇 つかは、 複数の業界で世界有数の企業が行った決定によっ 用の減少や地方所得税の減少につながる可能性もある。 て示された。 Appleは最近、主要な国際R&D施設の一つ 従って、その是非のバランスを決定的に左右するのは、 定 を横浜に開設した。 この施設は、極めて先進的な人工知能 年には程遠い労働者と定年を間近に控えるが働き続けた (AI)の研究に焦点を定めるとのことである。 日産は本社 い労働者の両方を含む、 離職者を対象とした研修プログラ を横浜に移転したが、 市の広域経済にとっ てより重要なの ムの質ということになるだろう。 は、同社が大衆市場向け電気自動車 「リーフ」を市内で製 造すると決定したことだろう。 労働力とサプライヤーの能 本社およびR&D誘致に的を絞った計画–この危機に対処 力に対する要求の高さを踏まえると、 世界でも大規模な電 するための市の全体計画では、外部の企業を市へ誘致す 気自動車製造を擁する都市は多くない。 Appleの決定も日 ることが強調されている。重点が置かれているのは、市に 産の決定も (我々の知る限り) 市の介入なしに下され、 いず れかが補助金を求めたかどうかは不明である。 横浜には工 業における充実した製造基盤がある (日産は都市圏内だけ 16 就業構造基本調査報告、2012 23 で50の一次請けサプライヤーを抱える) 。京浜工業地帯に を置いているようには思えない。 一例として、幹線道路に 沿った多く の古くからの工場はR&D施設に転換しつつある センサーが取り付けられたり、 日産その他の企業がこのテ か、すでに転換を終えている。 こうした企業が創業したの ーマに取り組んだりしてはいないようである ― 日産本社 は100年以上前だが、その当時でさえ技術の最先端に迫っ のショールームにはテスト用の 「自動運転」車はあるが、使 ていた (フォードの工場で大量生産が始まった時代) 。み 用にはかなりの制約がある(天気のよい日に幹線道路を なとみらいにも大規模なR&D施設がいく つかあり、 その一 短距離走行するのみ)。こうした技術の最先端において、 部は建設費用を対象とする最高50億円 (約5,000万米ド 民間セクターが投資する分野や対象を市が指揮したり統 ル)の補助金を受け取っ ている。この将来性のリストはさら 制したりしようとすればリスクを伴うが、 民間セクターはす に続くが、 最後に注目したいのは工学系人材の豊富さであ でにこうした技術を追求する意図を表明している。 日産以 る。市にはJGCと千代田グループという、少なく とも2社の 外でも、多数の「一次請け」中小企業が来るべき技術上の 大規模で地位を確立したエンジニアリング企業がある。 両 挑戦に向けてすでに設備を一新しつつある。 しかも、自動 社は世界最大規模のエンジニアリングプロジェクトを定期 運転電気自動車は一例に過ぎない。 大局的には、市の未 的に管理し、 実施している。 来は、国家プログラムを探し求めたり大企業の本社に補助 金を出そうとしたりするより、優れた強みを支援し、 地球の いくつかの投資計画があるも、 能力と課題に適切に結びつ 未来を形作ることになるいく つかの技術において世界の先 いているとは限らない。 こうした強みに立脚して港周辺地 頭に立つという市の精神を奨励する方にかかっ ていると言 区を改めてR&D重点地区に改変し、 新技術への移行を積 えよう。 極的かつ大々的に促進しようという提案もある。 市の全体 (モノのインターネット) 戦略もIoT やAI関連施設を視野に 入れているが、 標準的なインセンティブプログラム以上に これを促進する実質的なプログラムがあるかどうかは不 明である。 その一方、自動車関連産業やロボット工学に充 実した能力基盤を有し、 すでに電気自動車の製造が行わ れ、AI関連のR&D施設を擁する市にしては、 例えば自動運 転電気自動車の製造で世界有数のハブになることに力点 24 結論:目覚ましい、現実的かつ民 主的な変貌 ある意味で、 横浜が迫り来る危機に対処するには、 自らの たモージズは17、連邦政府の資金と権力を利用して市内に 歴史を考察することが最も有効かもしれない。 近年、横浜 陸橋を渡し、コミュニティを移転させ、自分が最もよいと思 は優れた強み、 充実した能力、市民としての高い誇りを備 う方法かつ常に権力に都合のよい形で市に貢献しようとし えた都市との印象を与えている ― ただし、 あまりにも多 た。田村も国家資金を利用し、 移転を行ったが、住民の移 数の小プロジェクトに目を向け、 あまりにも頻繁に外に気を 転を回避するために国家計画と闘っ て高架道路を地下トン 取られ、最大の課題から目をそらしている感も否めない。 ネルに変更した。 また田村が移転させようと闘ったのは、 もちろん、これは横浜だけの問題ではない ― 日本に限ら コミュニティではなく大企業と既得権益者だった。 一方は ず世界の多く の都市の政治経済学は、 往々にして同じよう 市に自分の痕跡を残そうとし、 それで市が改善されると信 な、あるいはさらに不適切な対応を導く。 しかも他の都市 じたのに対し、 他方は市民のために市を改造しようとし、そ の大半は、横浜が備える能力を持たない。 ある民間セクタ れが肯定的な遺産になると信じたのである18。 ーの幹部が述べたように、 「他の都市がプロジェクトの実 施を口にしている時に、 横浜はプロジェクトを終えている」 最後に、このストーリーを単に興味深いものではなく、 希望 。おそらく、みなとみらいの建設規模は大きすぎたかもし を与えるものにすると言えるのは、 これが達成された文脈 れないが、それでも市の活況はロンドンやニューヨーク ― である。これまでに聞き慣れていたのは、 通常の条件が保 首都の陰に隠れたかつての港と工業都市ではなく、 最もグ たれた幸運な時期を舞台に展開する、 このような国のリー ローバルで有力な金融ハブの2都市 ― における金融サー ダーや幹部に関するストーリーだったかもしれない。 しか ビスの発展と比べてまったく遜色がない。 新横浜という、 し、首都か、非民主主義国家か、 あるいは例外的に恵まれ 市が急成長する地区にもう少し資源を割いてもよかったと ている場合を除き、 都市でこのような事例はまれである。 思われる場所でさえ、 数十年でキャベツ畑から半導体クラ これとは対照的に横浜の変貌は、 特別なところは何もなく スターに成長した。 困難を抱えた民主的な都市で、 首都との不安定で、 ともす れば対立した関係の下、 中央集権化された国で起こった。 横浜の成功の背景には、 さまざまな要素がある。 東京に これは民主主義から逃れるのではなく、 それを生かすこと 近い点がその一つだが、 首都に近い都市は他にいく つもあ で達成された。 技術的脅威から身を隠すのではなく それを る。開港場としての歴史もその一つだが、 同じ時期に開港 利用することで、行動範囲が限られていることを嘆く ので 場として開かれた都市は他にもある一方、 第二次世界大戦 はなくそれを拡大することで達成されたのである。 中に横浜ほど荒廃した都市、 または広範囲にわたっ て長期 間占領された都市はほとんどない。 ただ、1960年代半ば から1970年代後半にかけて横浜が経験したことは、 他の 都市とは異なるようだ。 当時、日本には神戸や東京など他 にもカリスマ的な市長はいたが、 そうした都市に及んだ影 響は横浜から発したものだったように思われる。 今日でも 「横浜方式」 が話題に上ることがある。 インタビューした一 人は、「このストーリーは日本ではよく知られています 」と 述べた。 「プロジェクトを完成させた」 、そしてそれを可能 にした習慣を作った上級職員は、 市の歴史におけるこの時 代のことをいまでも親しみを込めて話す。 無条件でとは言えないが、 横浜は目覚ましい変貌を遂げた と結論できる。それは市が傑出した市長を迎えたときに始 まった。使用された考え方、 戦略、方策は見事なだけでな く反復可能でもあり、 一貫した信頼できる論理を通して市 の変貌へ結びつけることができる。 これと鮮やかな対照を 成すのが、有名な都市計画家であるロバート ・モージズの 17 (Caro, 1974) 18 この比較を明確にするにあたり、横浜市立大学都市社会文化研究科 ストーリーである。20世紀前半にニューヨークを作り変え 長である鈴木教授の手をお借りした。 25 参考文献 AndrewsMatt, PritchettLant, WoolcockMichael. 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