COMPETITIVE CITIES FOR JOBS AND GROWTH 競争力のある都市の事例研究 神戸 創造的復興 競争力のある都市の知識基盤 東京開発ラーニングセンター 2018年3月 免責条項 © 2018 The World Bank Group 本部所在地: 1818 H Street NW, Washington DC 20433 電話:202-473-1000 ウェブサイト : www.worldbank.org 本書の無断複写・転載を禁じます。 本書は、世界銀行グルー プの職員により作成されたものです。 世界銀行グルー プは、国際復 興開発銀行(IBRD)、国際金融公社(IFC)、多数国間投資保証機関(MIGA)を含む機関 から構成されており、 いずれも、各機関が定める協定に基づいて設立された、 個別の独立法 人組織です。本書は、 教育および非営利目的としてご利用くださいますようお願い申し上げ ます。 本書で表明される調査結果、 解釈、結論は、必ずしも世界銀行グループ構成機関の役員も しくは理事、加盟国政府の見解を反映するものではありません。 また当グループは、本書に 示すデータについて、その正確性に関して一切責任を負いません。 権利と許可 本書は、外部の協力のもと、世界銀行の職員により作成されたものです。本書で表明される 調査結果、解釈、結論は、必ずしも世界銀行やその理事会、 加盟国政府の見解を反映する ものではありません。本書のいかなる部分も、世界銀行の特権および免責に対する制限ま たはその放棄となるものではなく、また、そのようには解釈されるべきではないものとし、こ れら免責特権は明確に留保されるものとします。 本書に関するお問い合わせ: 世界銀行グルー プ 社会・都市 ・農村 ・ リジリエンスグローバルプラクティス 東京開発ラーニングセンター (TDLC) プログラム 〒100-0011 東京都千代田区内幸町2-2-2 富国生命ビル10階 電話 03-3597-1333 Fax 03-3597-1311 ウェブサイト :http://www.jointokyo.org 東京開発ラーニングセンター (TDLC)とは 東京開発ラーニングセンター(TDLC)プログラムは、日本政府と世界銀行のパートナーシ ップに基づいています。開発インパクトを図るべく、 日本と世界銀行がこれまでに蓄積して きた専門知識を、途上国で進めている特定のプロジェクトレベルでのさまざま取り組みと 融合させる機会を発展させ、共同研究や知識の共有、 キャパシティ・ビルディングといった 活動を通じて、世界銀行グルー プと加盟国による、日本国内の選定都市 ・政府系機関・パー トナー企業との戦略的な協働を支援、 促進します。 2 本書作成の背景と謝辞 本書における調査研究は、 世界銀行グループの社会・都市 ・農村 ・リジリエンスグローバル プラクティス主催で、 東京開発ラーニングセンター(TDLC)により実施されております。本 調査研究の目的は、 都市を競争力のあるものにするための知識ベースを作り出すとともに、 都市における雇用創出の仕組みを理解し、 さらに日本独自の開発の歴史を捉えることです。 このようにして得られた知見を開発従事者、 政府職員、 大学研究者、 民間企業の間で広く 共有していきます。 当センターを継続的にご支援くださった日本政府に対して、本調査研究チームより深く御 礼申し上げます。 本調査研究は、 ダン・ルヴィン、メガ・ムキムの両名を中心に、ルーク・ジョルダン、井本はる 香、ジュニ・チュウ、村上望をメンバーとするチームが進めたものです。 また、本調査研究の審査および支援に関して、 世界銀行グルー プの岡澤裕子、ピーターエリ ス、オースティン・キルロイ、ステファノ・ネグリ、ジョン・カー・カウに感謝の意を表します。 最後に、本調査研究では、 (公財) 神戸市職員の方々、 神戸都市問題研究所の方々、 神戸市 を拠点とする民間企業の方々からもご助言を賜りました。心より御礼申し上げます。 3 4 目次 震災前:1865~1995年 7 新たな挑戦を求める精神 7 繰り返される再開発、公営デベロッパーとしての神戸市 7 震災とその影響:1995年~ 11 対応策を指揮するのではなく、対応策を動員することで甚大な被害に対処する 11 「80%復興」 創造性から緊縮財政への転換と  16 医療産業都市:1995~ 19 複数のプロセスが合流 19 制度的基盤と中核的なテナント 20 企業は増えたが、2つの大きな疑問が残る 23 有限で不確実なリスク:2017年~ 25 人口動態上の危機 25 持続的な強みの組み合わせ 26 結論 29 5 6 震災前:1865~1995年 新たな挑戦を求める精神 般消費者向けの産業に参入した。 同じ時期に「ケミカルシ ューズ」 (合成皮革の靴) 産業が急成長し、神戸市長田区は 日本における靴製造の中心地となった。 鬼塚喜八郎が後 神戸の近代史は、 1865~70年の日本の開国とともに幕を にアシックスとなる製靴会社を創業したのも神戸だった。 開ける。今日の神戸の地には19世紀以前から町があった 同じく1960年代に神戸を訪れて鬼塚に会ったフィル・ ナイ が、特に発展してはおらず、 近隣の大阪に比べると控えめ トは、 まず鬼塚製シューズを米国で販売することを思い付 な存在だった。 1865年、 日本が明治維新につながる政治 き、後になっ てナイキを創業している。 その後、「神戸牛」 的混乱を迎えるちょうどその頃、 後に明治政府の首脳陣 ブランドの成功を通して神戸の名は世界的に知られるよう に加わる人物が日本初の海軍操練所の一つをこの地に創 になり、 P&G、ネスレ、イーライリリーを含む複数の多国籍 立した1。1868年には、 横浜と同時に開港場として整備さ 企業が日本支社とR&Dの拠点を同地に置いた。 全体とし れ、急速に発展した。 明治時代に神戸を中心とする兵庫県 て、1980年代後半までに市の経済活動は大幅に多様化し の知事を最初に務めた人物は、 後に日本の第一代内閣総 た。この間、 川崎重工業と三菱重工業の巨大な造船所は 理大臣となっ ている。 神戸は開港以降の数十年で資本流入 依然として中心部にあった。 と海外投資を引き付け、 急速な発展を遂げた。HSBCやジ ャーディン ・マセソンなどヨーロッパの大企業が神戸港周 辺に支店を設立した他、 造船をはじめとする様々な産業活 繰り返される再開発、公営デ 動が国内で始まった。 ベロッパーとしての神戸市 「日本で初めて新しいことに挑戦した都市」 –19世紀末か ら20世紀初めにかけて、 神戸は 「日本で初めて ~した」都 「株式会社神戸市」 の発展– 終戦直後から、神戸は都市開 市としての名声とセルフイ メージを確立した。 市は横浜と並 発プロジェクトに関する深い専門知識を蓄えていった。 こう び、郊外からの通勤用鉄道路線や街路のガス灯、 その後の したプロジェクトの多くは、 関連組織を通じ、 営利事業とし 電灯など、近代的な公共財が国内でも真っ先に建設され て実行された。10社余りの完全所有会社と市が部分的に た都市に数えられる。 神戸は初期の重工業の中心地でも 出資した多数の会社を含む外郭団体は、 鉄道会社からホ あった。現在も操業を続けている川崎重工業と三菱重工 テルデベロッパーまであらゆる分野に及んだ。 終戦直後、 業の造船所は、1920年代には数万人の従業員を抱えてい 市は戦災復興土地区画整理事業を利用して閉鎖された工 た。この時期には急進的な政治活動や労働組合運動の最 場の用地を購入し、 国や県の補助金および地方債の割引 初の中心地ともなり、 1920~1921年には造船所の労働者 債発行を含む複雑な金融工学を駆使して資金を調達した。 数万人が大規模なストライキを行っ ている。さらに初期の こうした開発は、1953年の第一期大規模埋め立てプロジ 消費文化が花開いた土地でもあり、 ジャズなどの音楽やフ ェクトの後に加速し、 市は「公営デベロッパー」 として知ら ァッションの街として知られた。 れるようになった。 戦後の起業家精神 ― タービンから靴まで ―–第二次世 土地区画整理、 東京オリンピックによって整備された国 界大戦後、 神戸は急速な復興を遂げる。 日本全体で高品 有スペースの活用–1964年のオリンピックに向けて日本政 質素材と資本財を中心に据えた産業政策が推し進められ 府は「土地区画整理法」 を成立させた。 この法によって地 ると、 戦前に市場を支配していた企業の一部は成長軌道 方政府は、インフラの改良や新規インフラの建設に必要で に戻り、 急速にバリューチェーンを向上させた。神戸製鋼 あると判断すれば、 既存の土地所有者の土地の一部を切 は銑鋼一貫生産を開始し、 後に合金の研究と生産、さら り取り、区画を交換することができた。 典型的な例は、 住 に機械、 特に建設機械へ子会社を通して事業を拡大して 宅密集地における道路の拡張だった。 例えば、道路幅拡張 いった。 例えば川崎重工業は戦前に航空機を製造してい 用のスペース確保や公共投資用の土地販売のため、 地主 た企業だが、 戦後は日本初の産業ロボットを製造してい は自分の土地の一部を提供し、 その見返りとして、インフラ る。1960年代には川崎モーターサイクルの発展とともに一 開発による所有地の地価の上昇から恩恵を受ける。 割引率 1 (Jansen, 2002) p. 305 7 図1:神戸の地図 出典:国土数値情報ダウンロードサービスのデータをもとに著者ら作成 と土地販売価格は認可を受けた土地鑑定人が評価した2。 なり、神戸は新たな埋め立て地 「ポートアイランド」 を造成 この法律はオリンピックに向けた東京のニーズを反映した し、細い陸橋で中心部と直接結ぶことを決定した。 行政側 ものだったが、 一般の目的に適用できた。神戸は、山と海 は市と港、造船所、重工業その他の既得権者との関係を変 に挟まれた細長い土地に集中した急速な発展と構造的変 えようとはしなかった。川崎と三菱の工場は土地の限られ 化を踏まえ、 この「土地区画整理」を特に積極的に利用し た市内で依然として103 haを占有していた4。同様に、 市 た(図1)。 は隣接する農地に建設事業を広げることもなかった5。 当 然ながら、古くからの重工業の一部を市街地に残すことが ゆっくりだが着実な専門知識と余剰の蓄積– 続く数十年、 組織のつながりを維持する上で長期的には利するという主 市は都市開発部門を立ち上げ、 区画整理を進めるために 張があったのかもしれず、 農地が野放しに拡大したり排除 地主とどう交渉するかを熟知した職員100人以上を配置 されたりするのは望ましくなかったであろう。 一見するとこ した。 土地区画整理に加え、 市はできるだけ多く の土地を のような選択は単純で非現実的な印象を与える。 その代わ 購入しようとした。 当時の市長は公共開発事業が市の財 り、例えば重工業の工場の一部を移転させ、 いくらかの農 政に利益をもたらすという信念の持ち主だったからであ 地を開発するといった方法で一定のバランスを保つことも る。1965年、もはや市の中心部に土地は残っ ていないと考 できたのではないだろうか。 しかしこのようなバランスを探 えた市は、 さらに地下の大規模ショッピングセンター、 「さ った形跡はない。 んちか」 を整備した (もっとも、後にこの地域の地上部分に は多数の大型商業施設が建設される) 。市は公共開発事 人工島建設の決定、およびその後の拡大–1980年代半ば 業に成功し、 1993年には市の取崩可能基金残高は1,220 に神戸の経済は繁栄し、市は少なく とも住宅地および一部 億円(約10億米ドル) に達した。3 1995年の阪神淡路大震 の商業地区において都市環境の改変、 改良を繰り返した。 災後の復興期には、 この余剰資金はすべて使い果たされて また、市による企業誘致競争も激しかった。 市では1980 いる。 年代全体を「企業誘致の時代」と呼ぶこともある。 この競 争のために必要な土地は、地理的な制約、 大規模な工場、 局所的な土地の不足–1960年代半ばには重工業と造船 農地のために神戸では不足していた。 1985年には、 資産価 業が活況を呈していたが、 コンテナ輸送時代の到来を控 格が急騰し始めたのを受け、市は1981年にオー プンしてい え、水深の深いバースが求められていた。 この技術変化を きっかけに港と重工業を市の中心部から遠ざけた横浜と異 4 三菱 :669,100m2、 川崎:360,000m2。 出典: 三菱 :https://www. jstage.jst.go.jp/article/jime/47/2/47_141/_pdf、川崎:同社パン 2 1954年の土地区画整理法 フレット 3 神戸市提供資料 「阪神・ (2017年4月28 淡路大震災と神戸市財政」 5 資料によると、 市では農地のもたらす利益を重視していたからであ 日) より る。 8 た「ポートアイランド」の第2期工事として、埋め立て地の大 総じて、 専門知識は大いに蓄積されるも、 債務も相当額 幅な拡大に着手した。 に。市は1990年代半ばまでに、 土地市場をめぐる複雑な 事業に従事し、 小・中・大規模の開発プロジェクトを実行 外国からの借り入れにより、 山をベルトコンベアーで海へ するための深い専門知識を備えた機関を設立していた。 市 運ぶ。 最初の埋め立てプロジェクトから、 市は六甲山 (図1 には世界でも先端的な技術を誇る複数の企業があり、 と 、上) を削って生じた土砂を使用していた。 山から海へ大量 りわけ資本財と靴の分野で強力なクラスターを形成してい の土砂を運ぶために、 市は地下にベルトコンベアーを建設 た。市の関連開発組織と多数の都市開発プロジェクトを通 した。 このベルトコンベアーのために掘られたトンネルは、 し、公共部門と民間部門は協働の経験を積んでおり、 市行 後に下水道に転用された。 ポートアイランド第2期工事で 政は合同で開発事業を立ち上げて管理する経験に長けて 最終的に埋め立てられた面積は390 Haで、 第1期の443 いた。 その一方、 市は(大部分の都市と同様に) 既得権者 Haと合わせた新ポートアイランドは、 横浜みなとみらいの を抱え、 対立のリスクを冒すよりはまず大規模な投資計画 4倍半の規模となっ ている(ポートアイランド833 Haに対 を選択する傾向があった。 製靴クラスターは低コスト製品 し、みなとみらいは186 Ha)。山のかなりの部分が崩され にますます脅かされており、 全体として市の経済構造は数 た結果、 新たに生まれた平地に工業団地の西神地区を建 十年前と変わらないようだった。 1991~1992年に資産価 設することができた。 当時の日本政府はこのプロジェクト 格バブルがはじけ、 その後数年にわたっ て需要が冷え込む の助成に消極的だったため、 神戸は外国からの借り入れ ( と、1990年代半ばに市債残高は8,000億円 (約80億米ド ドイツマルク建てとスイスフラン建てを含む) を利用した。 ル)に達した。 この背景には、 市税収入2,950億円に対し、 ポートアイランドはその後、 神戸医療産業都市の拠点とな 総支出 (譲渡費用を含む) が9,300億円という状況があっ るものの、 2017年現在、それなりのの部分が使用されずに た。債務負担は予想に比べると少なかったが、 すでに市の 残っ ている6。 市税収入の数倍規模だった。 6 直接観察による。 9 10 震災とその影響:1995年~ 対応策を指揮するのではなく、対応策を 必要はなかった。当日の朝は、教員が救援活動に派遣され る準備を整えて集合した。こうした手段の注目すべき特徴 動員することで甚大な被害に対処する は、対応責任者の行動内容をあらかじめ規定するのではな く、むしろその責任者がほとんど即座に利用できる様々な 建物が軒並み損壊–1995年1月17日早朝に神戸を襲った 手段を用意していたことである。 地震は、 史上最悪の自然災害に数えられる。 経済的損失 は推定10兆円 (1,000億ドル)に上った7。約6,400人が死 1日2回の会合を通した迅速な意思決定–震災当日、 市は 亡し、 23万7,000人が避難した8。 神戸では企業の1/5が損 意思決定のための組織構造を確立した。 直後に市長と各 壊、2/3以上が被害と操業停止に見舞われた9。 被害は市 部門の責任者で構成される災害対策本部が設立された。 の海側でことに深刻で10、 その中でも港周辺と六甲道地区 委員会は1日2回の会合を開くことで、障害を取り除き、現 および新長田地区に集中していた。 市外では幹線道路やガ 場の職員が求める決定を下した。 事前に準備されていた災 ス管などの主要インフラが損傷または寸断、 あるいは崩壊 害復興担当係の職員数人を中心に結成された事務局がこ したところすらあった。 給水車から水の提供を受けた人も れを支援した他、さらに関連諸部門からの多く の職員が本 いれば、 被災を免れた地域の親戚宅で洗面設備を借りざ 部業務に従事した。事務局は協議事項の作成を担うこと るを得なかった人もいる。 労働者は通勤経路を変更しなく で、会合を頻繁に開いても市の幹部職員の時間を圧迫した てはならず、 毎日何時間もかけて職場に通った。 高齢者や り担当作業に負担をかけたりせず組織が効率的に機能す 病人は病院を出て、 サービスが復旧するまで自宅に留まら るよう図った。 なくてはならなかった。 「私たちの役割は指揮をすることではなく、 動員すること 初期対応:事前に準備されていた手段を発動–地震の発 だった」–重要なのは、意思決定委員会も事務局も、 復旧 生を受け、神戸は事前に準備されていた様々な法、 規則、 の取り組みを細かく指揮したり管理したりしようとはしな 経験をすばやく活用することができた。 日本の既存の法律 かったことである。そうした構造への誘惑と頻繁に陥りが により、地震を激甚災害に指定することで地方自治体の活 ちな落とし穴がなかったわけではないが、 細かい指揮や管 動に対する国家財源の上限が自動的に66%から90%に上 理など広範な活動を前にして用をなさなかったであろう。 がった(法律規定の算出方法による) 11 。また、人手を増や 事務局はその代わり、 関連諸部門の職員を取り込むこと すためだけでなく、国家の承認が必要な決定を現地で行え で、現場の問題を速やかに汲み上げられる非公式な経路 るよう、国の職員を被災地に派遣することもできた。 イン を作り上げた。招集された職員が報告する協議課題を引き タビューで述べられたところでは、震度5.0を超える地震の 離し、下位レベルで解決されるようにすることで、 意思決定 際には平常時にも地域と深くかかわっ ている学校教員 を 委員会の効率を維持する一方、 現場のスタッフにも問題を 含む職員を迅速かつ自動的に救援作業に従事させられる まず自ら解決しようとしてもよい、 またはそうするべきだと 地域防災計画が策定されていた12。地区ごとに教員が指示 伝えた。この原則は管轄横断的な事項にも適用され、 国の を受けるために集合する場所を規定した動員計画が事前 職員が市に派遣されても、 市の職員が自ら決定し実行する に策定されていたため、これを地震当日に決定し通達する こともあった。これは「インシデントコマンドシステム」 とも 呼ばれ、この場合、意思決定、 情報作戦、現場対応を行う 事案処理機能に応じて役割と責任が共有された。 7 [Hyogo Prefecture, 2017] 8 兵庫県。 県全体では死者6,405人、 神戸市では4,573人。 一次避難 非効率的でもエネルギーがある方法か、 詳細な管理を伴 者数はピーク時で31万6,678人、 住宅の損壊は64万戸。 (Okuyama, う中央集権化か–この手法では当然ながらやや効率が下っ Long-Run Effect Of A Disaster: Case Study on the Kobe たが、中央集権化された、 あるいは厳格に官僚的なプロセ Earthquake, 2016)、 p.4。 スが災害時に効率的かと言えば、 そうとも言い切れない。 9 神戸市経済部工業課、 インタビューと資料。 その一方で、フランクリン・ルーズベルトが第二次世界大戦 10 神戸の主な市街地が海岸付近に広がっていたためで、 津波によるも にアメリカを参戦させる際に述べたそうだが、 「危機におい のではない。 ては、多少効率を犠牲にしてもエネルギーが過剰にある方 11 激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律 が、効率がよくてもエネルギーがないよりはまし」 なのであ 12 KIUR(神戸都市問題研究所) へのインタビュー、 2017年4月 11 る。全体として神戸では、被災者が 「平常通りの生活」 ― また、企業数の減少は、 いずれにせよコストの低い中国と 時間通りに出勤し、避難所に帰ることができ、 日常的な活 東南アジアの製造業者に対し競争力の点で危うい立場に 動を行え、高齢者が以前と同じケアを受けられる ― のパ あった製靴業に集中していた。 同業界はこの期間に企業数 ラメータの大部分の回復は、2、3カ月で達成された。 で75%、出荷額で60%の減少を記録した (図2)。その一 方、機械・金属業界企業は数が60%減少し、 生産高は上 企業に対する3つの対応。 復興の経済的側面に目を向け 昇したことから、 生産性の高い企業へ向けて大幅な資源の ると、工業振興課は震災の2日後に速やかに第1回企画会 再配分が行われたことがわかる。 実質的には経営が破綻 議を行っている–ここでは3つの優先事項に焦点を絞るこ しているいわゆる 「ゾンビ企業」の問題も1990年代後半に とが決定された。 第1は、企業が操業再開ための運転資金 は神戸に限った問題ではなく、 1990年代の日本経済全体 にアクセスできるよう支援すること、 第2は企業が労働力 を悩ませていた現象だった。 結局、 大規模災害が発生した へのアクセスを維持できるよう支援する、 つまり従業員を 当時、市や金融機関が完璧に対象を絞ることが可能だった 支援すること、第3は企業が操業を維持できるよう、 物理 だろうと考えるのは方法論として強引だろう。 同じ状況で、 的なスペースの確保を支援することである。 第2と第3につ 企業がすぐにそのような資源を運用できただろうと考える いては、技術的には同局の権限を越えたものだったが、 企 のもやはり強引である。 これより現実的な状況として考え 業のニーズに応えるため積極的に取り組み、 企業にレンタ られるのは、 せいぜい、対応の遅いプログラムと十分な情 ルスペースと、必要であれば従業員の一時避難場所を提供 報を持たない民間金融機関が、 瓦礫をよけつつ、 正確には するプログラムが含まれた。 運転資金を対象とする第1の どの企業が信用支援に値するだろうかと調べているうち プログラムは最も広い範囲に及んだ。 緊急融資の提供、 利 に、生産性の高低に関係なく多く の企業が操業停止に追い 子補給、場合によっ ては国内の政府系金融機関からの融資 込まれていただろうということである。 おそらくこれより重 の手配も含まれた。 この17年間に及んだプログラムでは、 要なのは、 最終的にプログラムが縮小され、 震災から5年 最終的に3万3,551社の支援に (県と市の両方から) 4,222 後には市の工業生態系の再編成が始まったことである。 億円が提供された13。 短期間での復旧、 ただし長期的な支出の可能性–全体とし 図2:革靴・ゴム靴・プラスチック靴の製造 て、プログラムによっ て市の工業部門の企業に対する直接 出荷額(100万円) 企業数 的な被害は抑えられた。 2000年には、工業部門の企業数 200000 2000 は1990年とほぼ同等になった。 その一方、総生産量は約 1800 20%低下した。 おそらく復興初期の豊富な資本と需要が、 160000 1600 長期的には競争力のなかった多く の企業を支え、 さもなけ 1400 れば起こっ ていたはずの再編成をある程度抑制したのだろ 120000 1200 う。2000年に市が緊縮財政措置に着手し、 2002~2003 1000 年に日本の金融部門が不良債権の整理に焦点を当てた改 80000 800 革に乗り出すと、 工業部門の企業数は急減した。 2005年 600 にはその数が20%減り、 世界金融危機を経た2010年には 40000 400 さらに10%減った (表1)。 200 0 0 最終的な撤退の重要性–しかし工業生産高と雇用はいっ 1988 1993 95 96 1998 2007 2010 2012 たん安定し、その後2000年代を通じて上昇したことから、 出典:神戸工業統計調査`をもとに著者作成 生き残った企業が成長し、 生産性を高めたことがわかる。, 表1:神戸における製造業部門の企業 1990 2000 2005 2008 2011 事業所数 4,542 4,498 3,767 3,620 3,164 従業者数(1,000人) 109.1 76.6 70.5 75.4 71.6 出荷額(1億円) 32,809 26,722 25,724 31,164 29,922 出典:神戸市工業統計調査全事業所 13 (City of Kobe, 2011) 12 復興期の土地市場および住民への対応 つを活用して不動産デベロッパーに提供され、そのデベロ ッパーが価値の高い住宅スペースや商業スペースを建設す る。この開発で生み出され、収益化された価値は、立ち退 都市環境の創造的復興– 復興が始まると、市はこのプロセ きを迫られた地元住民に新たな住宅や施設を提供するた スを利用して都市環境および経済構造の変革を加速する めに使用される。理論的にはこの通りだが、実際は、この つもりだと発表した。このプロセスは「創造的復興」 と名付 ような抽象的な提案は土地市場の実情と地元住民の要望 けられた。経済面では、これは主に以下で詳述する医療産 に直面して座礁する。神戸がこの種の複雑なプログラムを 業都市の開発を意味した。 都市環境に対してこの 「創造的 最初の構想から建設完了まで10年足らずで成し遂げた様 復興」を適用した中心となる事例は、 最も甚大な被害を被 子からは、震災復興という文脈でなくとも有益な教訓が得 ったと見なされた六甲道地区と新長田地区だった。 六甲道 られるだろう。 地区の南半分はほぼ完全に破壊、 北部も広範な被害を受 け、新長田地区も同様の被害を受けた (図3)。 最初のトップダウン式の試みは抵抗に遭う–市の最初のア プローチは、コミュニティにとっ て最適だと思われるものを 「平常」時の再開発プロジェクトと土地区画整理との類 形にした復興に向け、 構想をすばやくまとめることだった。 似–六甲道駅南地区の再建は、 低層建築が立ち並ぶ住宅密 この構想では、 中心に防災拠点にもなる広大な公園を新設 集地から、広いオープンスペースのある高層住宅街へとい し、公園に沿って配置される6棟の数十階建て規模の高層 う大規模な転換を伴った。 同地区は比較的立地に恵まれ 建築物を計画していた (図4)。しかし、この案を住民に提 ているため、高層住宅を建設し、 地元の住民が入居する店 示したところ、激しい反発に遭った。 住宅密集地での豊か 舗や住宅だけでなく、新たな機能の施設や住戸を販売す な近所づきあいに慣れていた住民にしてみれば、 公園は大 ることで、地元住民に新たな住宅を提供するための事業費 きすぎて人々が親しく触れ合えず、 高層ビルは圧迫感があ の一部を賄うことができると考えられた。 地元住民は自分 る上に近所づきあいが希薄になりかねないと危惧した。 そ の土地を手放す代わりに、新たに建設される住戸を等価交 こで住民は自らまとまり、 はるかに小さく、 歩いて暮らせる 換で受け取ることになっていた。 つまりこのスキームは、将 地区を含む対案を作成した。 このとき、市の経験が浅けれ 来の資産価値の上昇を見込んで資金源とする再開発プロ ば、当初の計画に固執しつつ、 住民に防御的になったり、 ジェクトなど、近年人気が高まっ ている市街地の再開発の 型通りの協議を開始したりする対応を取っ ていたかもしれ 形に酷似している。このようなプログラムでは、 理論的には ない。他の都市でこのようなアプローチを取れば、 対立と 地価が大幅に上昇するものの住宅の質が低かったり、 道路 遅延の悪循環に終わるのが普通である。 そんな中、神戸市 や公園などの公共施設が脆弱であったりする地域が再開 のアプローチはまったく異なっ ていた。 発の対象となる。基盤となる土地は、 多様な法的手段の一 図3:六甲道の被害 State of 被害状況 damage Southern 六甲道駅南地区 Area of Rokkomichi Station ・死者 ・ :34人 Deaths: 34 persons ・ Complete/half ・全壊/半壊:約65% collapse: approx. 65% 出典:被災度別建物分布図 (都市計画学会、日本建築学会) 13 図4:復興に向けた市と住民の当初案 市の提案 住民有志による対案案 市の提案 出典:Comprehensive Strategy for Recovery from the Great Hanshin-Awaji Earthquake、City of Kobe 「まちづくり協議会」 の設立–市民との交渉で培った経験 論するという過酷なスケジュールをこなした ― ある当局 を生かし、神戸市当局が考えたのは、 住民によるまちづく り 者によれば、18~24カ月の間に「数百」回も出席したとい 計画の合意形成を最優先にすることは、 初期段階では遅 うことである。このプロセスを経て両サイドから当初の計 延を招くかもしれないが、 長期的には効率的で効果的な復 画に大幅な変更が加えられたが、 市が将来の災害に備えて 興につながるということだった。 そこで同地区を大きく4つ 大きな広場が必要だと住民に強く説明したため、 最終的に のブロックに分け、それぞれに「まちづく り協議会」 を設立 は住民の案よりは市の当初案にやや近いものが出来上が した�。この協議会の役割は、 様々な案とその考え方を検 った。住民が建物に囲まれた広場という構想に同意する一 討し、住民からの意見をさらに募り、 合意形成を行い、 共 方で、市はその広場と建物の高さを大幅に縮小し、 より密 同で提案を改善し、 最終的にどちらにも受け入れられる詳 でつながりを感じられる計画に変更した (図5)。当局は協 細な案をまとめることであった。 協議会には、 討議と意思 議会を、まちづく り提案への同意にこぎつけるだけでなく、 決定の枠組みとして総会と役員会が設けられた。 注目すべ 事業遂行に必要な細かい譲渡契約や価格の設定方法につ きは市当局が取った姿勢である。 単にこうした枠組みを立 いて討議し、これを整備する場としても活用した。 1997年 ち上げ、ひとりでに機能するだろうと考え、 四半期に一度姿 初めに4つのブロックすべてで改定案が承認されると、 こう を見せる以外は関与せず、 進捗が見られないと嘆く どころ したプロジェクトにありがちな論争もなく、 復興は迅速に か、むしろ、彼らは協議会との対応を主要な業務とは言わ 進んだ。そして建設作業は2005年9月に完了した。 ないまでも自分の仕事と見なし、 度々協議会に出席して議 14 図5:六甲道駅南地区の最終設計 出典:Comprehensive Strategy for Recovery from the Great Hanshin-Awaji Earthquake、City of Kobe 選択肢と柔軟性を保つことを重視–プロセス全体を通し、 地元内での移転を重視–起こり得る衝突のもう一つの原因 復興の事業で各住民がどのような形で生活を再建するか は、本人が希望する場合を除き(上記の原則1のように)、 について、地元住民に提供された選択の幅は広かった。 例 元の地区から移転・立ち退きさせられる住民はいないと約 えば、元の土地の権利を新たな建物における床の所有権 束することで取り除かれた。新しい建物の建設中ですら、 に変換する際、住民は特定の形や広さの住戸を受け入れる 住民がもともと住んでいた場所に近い公園その他の区域 よう強要されたわけではない。 元の土地の価値は新たな に仮設住宅が建てられた。これにより、子供が震災前と同 建物の中で区分された床に変換され、 その分を住戸と金銭 じ学校に通える、結びつきの強いコミュニティが維持され のどのような組み合わせで受け取るかを選べたのである。 るなど、立ち退きさせられた住民がもたらす社会的影響の 例えば、元の土地がX平方メートル分の権利に相当すると 連鎖の一部が劇的に緩和された。 された場合、Xより広い住戸を選んで差額分を支払う、 あ るいは逆にXより小さい住戸を選んで差額分を受け取るこ 3つの必須要素:事前の専門知識、公的資金、法制度–こ とができた。場合によっ ては、全額を金銭で受け取り、 ど うした原則を実行に移すのは、口で言うほど容易ではな こか他へ引っ越すこともできた。 個別の選択肢を可能にし い。神戸でこれらが実現した理由は次の通りである: たことで、個々の地主と市との間で起こり得る紛争の原因 が減った。選択肢を重視する姿勢はさらに広い範囲で見ら 1. それまでの40年間で市当局が培ってきた交渉と協議 れ、枠組みのパラメータを提案する市とその中で選択する に関する専門知識。このような専門知識はゆっくりと コミュニティ構造との相互作用が復興のステッ プの特徴と 着実に築かれるに違いなく、また地域で頻繁に応用さ なっていた。例えば、市は4ブロックのそれぞれに共益サー れることで洗練されていくものである。 ビス用地を確保し、まちづく り協議会にそのスペースの使 2. 外部性を吸収するために公的資金を使える能力。 個々 い方の決定を委ねた。 その上で市は、 あるブロックにはスー の選択肢を維持し、 地元内での移転に重点を置けば、 パーマーケット、別のブロックにはヘルスクラブなど、 そう 昔も今もコストがかかる。 新たな物件は市場価格で販 したサービスのためのテナントをコミュニティが誘致する 売されたが、 それでも復興全体は最終的に約10億円( のを積極的に支援した。 約1,000万米ドル)の赤字となった。これは大きな額で はないが、 プロジェクトのためには長年にわたって多額 15 の資本を凍結する必要が 表2:再開発プロジェクトの進捗 あった ― 商業的な収益 再開発プロ 区域面 率であれば名目上の損益 都市計画決定 事業計画決定 完成状況 ジェクト 積 分岐点を大幅に上回る 必要があっただろう。 つま 六甲道駅南 5.9ha 1995年3月17日 10工区 10工区 り、公共部門はこのわず 14棟 14棟 かな損失を吸収する能力 5.9 ha (915 戸) のみならず、 期間中の資 新長田駅南 20.1ha 1995年3月17日 41 工区 33工区 本コストを吸収する能力 44棟 37棟 も要求されたのである。 19.8 ha (2,585戸) 3. 都市開発や災害復旧に関 出典:震災から20年における復興の進捗と取り組み、神戸市 する既存の法律。 上で説 明したように、 災害に見 舞われたとき、 市は都市 開発と災害復旧に関する既存の法律を活用することが 創造性から緊縮財政への できた。さらに供出、 再定住、資産処理、 調達といった 転換と 「80%復興」 問題について、 こうした法律は今日の多く の国や「ベス トプラクティ ス」 の枠組みの事例に比べて寛容だった。 約100億ドルの新規市債で市の債務が拡大– 復旧と復興 例えば、土地の売買に関する規則は比較的寛容で、 各 の資金を確保するため、 市は1995年から20年で一般会計 都市は、オークションや認定専門業者が定める水準の として1兆円近い市債を発行した15。 これは一般会計の復 固定価格販売など、 いくつもの方法の中から選ぶこと 興費用総額2兆2,000億円のおよそ1/2に当たり、 残りは国 ができた。 庫、 県、それまでの余剰資金の取り崩し、 市税収入などを 組み合わせて賄った。 債券の発行により、 震災後の市の市 民間部門プロジェクトの場合も含めた再現可能性の範囲 税収入が2,500億円 (25億米ドル) (1993年の2,950億 と選択基準–こうした基準が存在する状況は多くはなさそ 円から減少) であったのに対し、 市債残高の総額は1997年 うである。 民間部門では、 言うまでもなく外部からの資金 には1兆8,000億円(約180億米ドル) に達した。 2000年 提供が必要なために存在しない可能性が高い。 それでも、 までに市は巨額の債務を抱え、 債務元利払いコストは市の 民間部門に関係する基準も含まれている ― 市は多数の小 予算の18%を占めていた16。 規模な地主との複雑な交渉における数十年の経験を有す るが、 これは大規模な未開発地域の開発や利用されなくな 「乾いた雑巾を最後の一滴まで絞る」 :緊縮財政–2000 った単一工業地域の開発における経験より重要である。 こ 年以降 ― 課によっ てはそのかなり前から ―、 市は大幅な のような専門知識があっ ても資金調達は依然として必要で 支出削減に乗り出した。 復旧・復興に無関係な新規プロジ あり、 地元内での移転や住民の選択肢を認めない金銭的 ェクトはすべて中止された。 あらゆる部門に対し、 できる限 な理屈に依存する抽象的なモデルでは、 標準的な検討事 り支出を削減するようにという厳命が下った。 市の職員は 項は別としても、 公的資金の制約が、 単に不可避の紛争か 年に300~600人、 それも毎年削減され、 総数は1995年 ら生じる現実の制約に置き換えられる可能性が高い。 の約2万2,000人から2005年には約1万8,500人、 2010 年には1万6,000人にまで減った。 これは主に自然減による 焦りは禁物 ― 新長田地区の復興–上で述べたように、 神 ものだが、 ITシステムへの投資とプロセス改善の結果でも 戸には全面的な再建が必要になった地区がもう一つあっ ある。 市の財政赤字は1995年の約1,200億円から2000 た。 新長田は六甲道よりも幾分広く、 立地の点ではやや劣 年には300億円になり、 2011年には実質ゼロになった。 こ っ ていた (表2)。しかし、 復興プロジェクトは六甲道よりも うした対策の大部分は国内需要に直接的な影響を及ぼし 急いで進められた。 その原因は、 多数の商店主ができる限 た。 大部分の復興作業で地域の物品とサービスが直接購 り早く店舗を再開できるよう求めたから、 ということであ 入されていたためだけでなく、 例えば公務員の削減で地域 る。 その結果、六甲道で取られたような慎重な討議プロセ の消費が落ち込むといった間接的な影響もあったからであ スは省略された。 復興は完了したものの、 新長田は六甲道 る。 と比べて 「悪戦苦闘した」 と評されることがある14。短期的 な焦りが長期的な進捗を脅かした、 あるいは一勢力の要求 続いて生じた需要不足が復旧の大きな障害に–2000年以 に対してあまりにも急いで譲歩した例と言えるかもしれな 降、 神戸経済は需要不足の時代に入った。 当時国の経済全 い。 緩急のバランス、 そして慎重な検討と譲歩のバランス 体がデフレにもがいていたが、 神戸ではとりわけそれが深 は、 同じ行政機関によっ てすら確実に実現するものではな 刻だった ― 専門的な研究では、 震災前には全国の物価レ い。 そのようなバランスは、 上で述べた条件 ― またはそれ ベルであった地域物価のインフレが2001年には全国平均 に近いもの ― が揃っ ていてさえ、必ず実現するとは限ら を下回り、 2003年までその状態が続いたことが示されて ないのである。 いる。 緊縮財政が復旧を台無しにしたという言い方は極端 15 これらを含め以降の数字は神戸市提供資料 「阪神・淡路大震災と神 戸市財政」 (2017年4月28日)による。 (Okuyama, The Rise and Fall of the Kobe Economy from the 14 16 債務元利払いコスト (利払いと元本返済を含む)は支出総額8,769億 1995 Earthquake, 2015) p. 638-9 円のうち1,540億円だった。 16 だが、神戸が震災前のトレンド、 あるいは他の同レベルの そうなプロジェクトのため、好況期に抱え込んだものであ 都市のトレンドをいつまでたっ ても取り戻せない有力な要 る。この負債はおそらく、震災前の態勢における最も弱い 因と見なされてきた。 2000年代初めの需要不足は、新卒 点だろう。最後の点は、市が復興と土地区画整理で生み出 者を中心に若者が就職の見通しをよそに求めて市を離れ された開発利益をもう少し還元できたのではないかという ることにつながったため、 市の人口動態の歪みの有力な要 ことである。六甲道駅南地区は住戸の販売を通してこのよ 因でもある17。質の面(おそらくダメージとして) から言え うな開発利益が還元されたため、 市としてはほぼ損益分岐 ば、人口動態の危機が迫り、 世界と国の経済状況が変わっ 点でプロジェクトを完了したが、他のプロジェクトの成績は ても、市は対応する財政余力を持たず、 最悪なことに緊縮 不明である。インタビューでは、震災後の区画整理で地価 財政のプロセスと結果を管理することにエネルギーを取ら が大幅に上昇したところでは、その開発利益の大半が民間 れていた。このような時期が終わったのは、 復旧・復興の の土地所有者のものになったことが示唆された22。 債務の大半を返済し、 市の負債と歳入の比率が全国の都市 の中央値に近づいたつい最近のことである18。 とはいえ、 成果はあった。 このような大規模な破壊の後、 成長トレンドにおける多少の長期的な障害を残すのみ 「80%復興」 – 神戸のオブザーバーの間で震災後の経済 で、10年以内に 「80%の復興」 を成し遂げたことは、侮り 状況を描写する際によく使われた表現が、 「80%復興」 がたい事実である23。 市は経済構造の少なく とも一部を改 ― 経済はほぼ回復したが、 かつてとまったく同じ水準では (上で述べた通り) め、 製靴産業に対する依存度は大幅に ない ― である。 おそらく最も長引いた影響は、 今日の神 低下した24。古い企業が衰退し始めると、 市の工業部門で 戸における人口動態の歪みである。 扶養状態を示唆するデ は生産性が (少なく とも労働生産性の点で) 大きく向上し ータとして、 東京や横浜では賃金や給与を受け取っ ていな た。そして少なく とも一つの領域で、 それも特に困難な任務 いまたは極端に低い世帯が全体の18~19%であるのに対 において 「創造的復興」 が成功したと言える。 それが、神戸 し、神戸では全世帯の25%を占める19。 さらに、 神戸では 医療産業都市 (KBIC)という、世界的にも技術の最先端を 震災以降65歳以上の人口の占める割合が周辺都市を含め 行く新たな産業都市の創成だった。 他の都市より高くなったことが明らかになっ ている20。急速 に復旧した 「よい」 時期(1995~2000年) 、それに続く緊 縮財政の 「悪い」 時期 (2000~2005年) をそれぞれ特徴 付けるのは、 2つの時期が相互に関連している以上、 正確 ではないだろう。 最初の急速な復旧の時期は、 すばやく膨 大な債務を抱え込み、 後に緊縮財政を強いられることなく しては実現しなかっただろう。 それでも、 2005年には神戸 の震災以前の成長トレンドに対して19~28%の生産高ギ ャップが定着し、 今日まで続いているようである21。 言っ て みれば結果は、 市のマクロ経済的な状況が逆風になると、 一貫性のある大規模な再編成プロセスが大幅に制限され ることを示している。 平時の条件、 先立つ負債、 開発利益の還元が現実と異な っていた場合– 数十年後の「もし~なら」 という抽象的な想 定は、気になるとはいえ当てにならない。 それでも、 膨大な 債券発行と支出が必要だったのかと問うてみてもよいかも しれない。と言うのも、 上記の数セクションで説明したよう に、数年にわたっ て進展するプログラムは早急に実行され るものより効果的だったのである。 サービスの再開と迅速 な復旧作業は必要だったが、 支出の「生活支援」 と「災害 復旧」のカテゴリーは全支出の1/3を占めたにすぎず、 2/3 を占めたのが「復興対策」 だった。このような支出はさらに 数年にわたって分割し、 急激な緊縮財政を和らげてもよか 22 市は余分に建設された住戸を所有したり所有権を取得したりして開 ったかもしれない。 第2の疑問点は、 地震に重なった過剰 発利益を得たが、 我々が知る限り、 私有地における開発利益を還元す 債務である。上で述べたように、 これは新しいポートアイ る政策手段は、 固定資産税を通してある程度得られる分を除き、 存在 ランドの第2期工事という、 問題が多く疑問の余地もあり しなかった。 出典:神戸市の元職員へのインタビュー 23 比較として、 2011年のニュージーランド ・クライストチャーチ地震の 後、 同市の市議会が発表した地震前の成長予測と地震後30年間の 17 (Okuyama, The Rise and Fall of the Kobe Economy from the 成長予測を比べたものを挙げる。 「急速な復興のシナリオ」 の下です 1995 Earthquake, 2015) ら、 クライストチャーチはその後10年で地震前の成長予測の76%し 18 正確には、 「日本の政令指定都市」 間の中央値。 か達成できないと推定された。 中程度~ゆっく りした復興のシナリオ 19 総務省統計局 就業構造基本調査調査(平成24年10月)より、 年間の の下では、 この数字はそれぞれ58%と40%になる。 以上は、 震災後 賃金・給与が400万円以下の世帯数の割合を算出。 に経済が予想された成長軌道に戻ることの難しさを強調している。 出 20 (Okuyama, Long-Run Effect Of A Disaster: Case Study on 典:http://resources.ccc.govt.nz/files/homeliving/goahead- the Kobe Earthquake, 2016) buildingplannings00/feesandcharges-s08/dcpgrowthmod- 21 (Okuyama, Long-Run Effect Of A Disaster: Case Study on el-summaryofpostearthquakegrowthprojections.pdf the Kobe Earthquake, 2016) 24 (Edgington, 2011) および (City of Kobe, 2012)も参照。 17 18 医療産業都市:1995~ 複数のプロセスが合流 専門とするシスメックス社は1968年の創業以来、血液学と 試薬の分野で世界をリードし、 急成長を遂げていた。医薬 品の分野では、イーライリリーが1975年に日本支社を神戸 新しいながら、 大方の証拠によれば活況を呈しているク に設立している。 同社は西神地区の製造拠点と臨床試験 ラスター–ポートアイランドに位置する神戸医療産業都市 を行う営業所を抱え、 国際共同治験の規制制度に日本が (KBIC)は、神戸市が1995年の震災後に提案した 「創造 参加した時点でやや発展が見られた。 とはいえ注目すべき 的復興」 プロジェクトの一つだった。 国と県からの資金を 企業はこの程度で、 同分野には地域に根差した学術拠点 含め、 総コスト4,200億円 (1995年当時の為替レート で約 や研究機関がほぼ存在しなかった。 その一方で、それより 38億米ドル) をかけたプロジェクト では、 神戸市が中心と 広い範囲にわたる関西地方には、 過去にも現在にもライフ なり、市が造成した人工島に必要なあらゆるインフラを集 サイエンス分野で世界トッ プレベルの大学や研究機関がい めるとともに、 市庁内に担当部署を立ち上げて島内への企 くつかある。これは特に、 世界をリードする京都大学があ 業、研究機関、 病院の誘致を促進した。 20年にわたる発 る京都、日本の医薬品業の30%が集まるとも言われる大 展で、 現在のKBICは344の企業と組織を抱える (2017年 阪に当てはまる25。 9月現在) 大規模かつ活気あるバイオメディカル・ クラスタ ーとなっ ている。 KBICは「国家戦略特区」 に指定され、 こ 様々な資料に基づく震災直後の議論–市の政策文書の中 こで研究者と医師が最先端のバイオメディカル研究と臨床 には、 早くも1993年に健康関連産業に言及したものがあ 応用に携わっ ている。 る26。しかし、本格的な議論が始まるのは1997年秋、 数人 の与党議員が医療産業を誘致するプロジェクトを提示した 1995年以前の活動は限定的でも、地域の真の強みと言 時点からである。 市はかねてより北海道におけるメディカ える分野–震災前の神戸のライフサイエンス関連産業は小 ル・ クラスター計画、 「HIMEX」計画を耳にしていたが、同 規模なものにすぎなかった。臨床検査用の器具と試薬を 計画は1998年に放棄された。 同時に1990年代前半に日 図6:神戸医療産業都市の上空からの眺め 出典:神戸市提供 25 (Schlunze, 2007) 26 (Okuyama, The Rise and Fall of the Kobe Economy from the 1995 Earthquake, 2015), p. 638 19 本政府はライフサイエンスを将来性のある産業と特定して 制度的基盤と中核的なテナント おり、地方政府にその振興を奨励していた。 1998年4月、 市はプロジェクトのパートナーとの調整を担当する職員を 任命した。 市会議員たちは当初、クラスターには米国の医 第一歩として強力な制度的基盤を確立–市の第一歩は、 ク 療技術企業をはじめとする多国籍企業を誘致すべきと考 ラスターの基本的なパラメータと制度的形態を定めるため えていた。 そのため、「神戸医療産業都市構想」 と呼ばれ、 に、産官学界が参画した懇談会を設置することだった。 そ 市の取り組みは米国の企業を訪問し、 誘致する検討から始 れが、先端医療振興財団(FBRI) 「三重らせん」 という、 組 まった27。 織となって存続している。クラスターの構想とFBRIの使命 は、神戸経済を再活性化し、地域コミュニティに医療を提 研究、応用、産業の収束点–1990年代前半、医学の基礎 供し、アジアにおける医療技術の発展を支援するという3 研究、臨床応用、製薬における日本の強みは、 両者を効果 つであり、臨床試験の支援、再生医療研究の促進、 医療技 的に橋渡しするものがないために、 相互に十分補い合っ て 術研究の推進と支援が医療産業都市構想懇談会で決定さ いないと考えられていた。大学では基礎研究が行われる れた3つの取り組むべき重点分野である。 一方、企業は漸進的なイノベーションに集中していた。 日本 政府の神戸を支援したいという意向、 市の「創造的復興」 多数の補完的な組織と部門– FBRIの下には一連の付属 ・ 目標、日本のどこかにバイオメディカル・ クラスターを開発 関連機関が整備された (図7)。先端医療センター研究所 するという既存の計画が交錯する場に機会が生まれたの (IBRI)は臨床研究を促進 (または実施) する。「臨床研 である。 究情報センター」 はこれまでに約200件の臨床試験を支援 し、 研究情報を公開する多様な情報ポータルを管理してい 選定は多数の可能性が交錯した結果である–1998年後 る。 他の部門はクラスターに企業を誘致し、 ネットワーキン 半、市は新ポートアイランドの未使用部分を中心に神戸医 グイベントを開催し、 商業化に関する相談を受け付けると 療産業都市構想を推進すると発表した。 当時、市の決定は いった活動を主に行っ ている。 同時に、価値創造が知的財 医療関連活動に焦点を絞ったもので、 外資の大企業を誘 産権に深く結びついている業界で、 慎重な扱いを要する研 致する計画を原動力とするということが議論されていた。 究結果を各社で管理し共有する際に起こりうる必然的な 続く発展は他の都市とは大きく異なり、このような標準的 緊張を踏まえ、 財団は知的財産権保護について、 まだアプ な計画が実現した場合よりも有益な教訓を与えてくれる。 ローチの余地があることを認めている。 外部の弁護士数人 明らかなのは、この選択が複数の組織の意欲、 新たに生ま が関わっ ているものの、常勤の知的財産権専門弁護士はい れた必要性、能力、そして機会が組み合わされた結果だと ない。 様々な部門と関連機関には、 研究、 企業、行政それ いうことである。 ぞれの背景を持つスタッ フが入り混じっている。 FBRIの成 功にもとづいて、 特許手続きの合理化への更なる投資およ 1. 関西地方の研究ネットワーク び知的財産権に関わるパートナーシッ プの拡大が続くであ ろうことが大いに考えられる。 2. 新興分野で独自の機会を追求する自治体および組織 のリーダーシップ 3. 利用できる市有地と市による「創造的復興」の推進 4. 神戸を支援し、ライフサイエンス関連産業を育てたい という日本政府の意向 「阪神・ 27 淡路大震災10年 翔べフェニックス 創造的復興への群像」、 阪神・淡路大震災記念協会出版、 2005年1月。 20 図7:医療産業都市の基盤となる組織図 初期に世界一流の研究センターを有機的に誘致–クラスタ ーの発展初期段階におけるおそらく最も重要な出来事は、 日本有数の基礎研究機関である理化学研究所 (理研) が 2000年に下した、クラスターに発生 ・再生科学統合研究セ FBRI Foundation for Biomedical Research and Innovation • President • Vice Executive President ンター (現多細胞システム形成研究センター) (CDB)を設 • Senior Executive Director 立するという決定だった。 理研と市はお互いに並行して働 • Executive Director and Secretary General • Director きかけを行い、 井村博士やその他の優れた関係者の名声 とネットワークが重要な役割を果たした。 理研がCDBを創 Management Planning Division 設しようとした最初のきっかけは、 1999年前半に立ち上げ Audit Office られた日本政府のミレニアム ・プロジェクトだった。 CDBの IBRI Institute of Biomedical Research and Innovation 設立趣旨が神戸医療産業都市構想と合致することから、 市は神戸での設置を要望した。 また、理研もCDBを神戸に PCK Pro-Cluster Kobe 設置すれば研究成果を他より迅速に事業化できるだろう TRI Translational Research Informatics Center と確信した。 RDC Research & Development Center for Cell Therapy IMDA, Project Promotion Office for International Medical Device Alliance Eye Center Project Planning Office 出典: 公益財団法人 先端医療振興財団 パンフレット 21 図8 神戸医療産業都市 施設配置図 出典:神戸市提供 22 中核機関を中心に補完的な機関を建設– CDBの場所が 企業は増えたが、2つの大きな疑問が残る 決まったのとほぼ同時期に、 市は先端医療センター研究 所 (IBRI)の設立を決定、 2000年に建設が開始されて 2003年4月に全面開業した。 CDBの研究キャンパスと 対象を絞って厳格に実行された補助金プログラムには、 IBRIはお互いに近いため、 研究と臨床試験を間断なく、 頻 期日が来たら廃止される厳格な規定が付随–企業誘致の 繁なやり取りを通して行うことが可能になった。 いずれも 主な手段は賃料補助だった。 クラスター内に移転する企業 2002~2003年に開業している。 その後、 市内には2007 は、 研究所スペースやその他の施設を最初の3年間は賃料 年の計算科学研究機構 (AICS) 、2011年の生命システム 50%割引で使用できる。 この割引が3年間適用された後 研究センター (QBiC)など理研の新たな研究ユニットが は、市場相場が全額適用される。 研究所施設へのアクセス 数年の間隔で設立された。 2011年後半、 市は総合病院で に補助金を設けるこの手段は、 バイオメディカル関連企業 ある神戸市立医療センター中央市民病院をクラスター内 がクラスターへの移転で抱えるリスクを軽減する。 一方で に移転した。 神戸低侵襲がん医療センター、 チャイルド・ケ 補助を期限付きとすることで、 いずれにしても操業していた モ・ ハウス、 兵庫県立こども病院など、 他の医療機関も設 だろう企業によるただ乗りや乱用のリスク、 あるいは研究よ 立されている。 こうした先端的な研究機関と医療機関の相 り補助金で利益を得るリスク (補助金プログラムに共通す 互関係を補完するのが私企業で、 その数は2001年の20社 るリスク) がある程度は減る。 15年以上の期間に集まった 足らずから2010年には200社以上、 2016年には300社以 500社を超える企業のうち、 現在残っ ているのは約344社 上と増え続けている。 このようなイ ノベーション ・システム が現在も運営を続けており (2017年9月現在)、企業数の の構成要素はお互いに近接し、 大部分は南部の理研施設 自然減は産業都市の統制を実際面でも理論面でも示して から神戸低侵襲がん医療センターへ伸びる中心軸沿いに いる。 退去した企業の中には他の事業上の理由で退去した 位置している。 ところもあるが、 補助期限後は存続できなかった企業もあ る。この制度は、 弱体企業を下支えするクラスター プログラ 地域・地方の研究ネットワークに慎重かつ徹底的に根を ムに共通したリスクを緩和するのに役立つと考えられる。 下ろす–今日、 神戸医療産業都市は同地方の研究ネットワ 企業は、 物理的には神戸医療産業都市の主軸に沿っ てかた ークに深く根付いている。 一例として人員の点を挙げると、 まっ ており、幅広いサブセクターを網羅している。 理研の研究センター長は大阪で大学教授を兼任する。 同 クラスターにおける最も突出した研究上の躍進は、 人工多 数は少なくとも高度な仕事と広範な波及効果– 神戸医療 能幹(iPS)細胞を使った網膜の再生治療である。 この研 産業都市に対する批判の一つは、 創出された直接雇用の 究はCDBの高橋政代博士が率いてきたもので、 高齢者の 数があまり多くないことかもしれない。 現在でも、 その数 失明に対し大きな影響を及ぼす可能性がある。 直近の研 は8,000人と比較的少数に留まる (西神地区のバイオメデ 究は京都大学iPS細胞研究所 (CiRA)、CDB、神戸市立医 ィカル企業を含めると約10,000人) これは神戸の総労働 療センター、 大阪大学医学部附属病院との共同の取り組 人口のほんの一部にすぎず、 米国で最大規模のクラスター みとして行われている。 こうした研究ネットワークは私企 に比べると少ない。 その一方、こうした職は高賃金セクター 業にも拡大されている ― 例えば神戸市にあるイーライリ に属しており、 地域での消費その他の間接的な効果を通 リーの研究開発 (R&D)部門はクラスター内の研究成果 し、かなりの乗数効果を及ぼすことができる。 また同クラ に常に通じており、 必要に応じてそれを同社R&Dのグロー スターは、 約6倍の人口を抱え、 国民国家で利用できる方 バルネットワークと議論している。 定期的なセミナー、 一般 策すべてを備えたシンガポールのクラスターを凌ぐ。 FBRI 公開、ネットワーキングイベント、 マッチメイキングサービス だけでその経済的価値の総額は1,532億円 (約15億米ド が各機関や各社、 市、FBRIの各部門によっ て提供されてい ル(2015年時点))に上るという。むしろ、 クラスターの成 る。このネットワークの密度が重要な役割を果たし、 市は、 長に見られる勢いを考慮すれば、 米国のクラスターとの格 世界で十指に入る日本の最高性能スーパーコンピュータ 「 差は、 今後の市のポテンシャルを示唆するもので、 市として 京」の誘致に成功した。 クラスター内のAICSに設置された は、 医療産業都市の取り組みが優先事項であり続ける動 スーパーコンピュータは、 周辺企業が実行する複雑な定量 機にもなるだろう。 生物学的モデリングに利用される以外にも広い用途で使 用されている。 例えばアシックススポーツ工学研究所は、 市と国に対するコストと利益– 神戸医療産業都市の公共コ 新しい複雑な化合物のモデリングを高速で行うのに利用し ストの総額は4,200億円(約40~50億米ドル)と推定さ ている。 クラスターによっ て、 また広い意味では神戸市によ れ、雇用1件あたり約5,200万円(約52万米ドル)という計 って築かれたネットワークを通し、 様々な研究者や企業に 算になる。ここでも、 コストがやや高いように感じられるか スーパーコンピュータの用途を見つける能力が備わっ てい もしれないが、これは当時その金額が投入された可能性が ることは、 国の立地検討部会が神戸を選ぶことになった主 高い他の事業の視点から見るべきである。 日本はこの数十 な要因の一つだった。 年間、長期的な経済的利益が疑問視されるような大規模 なインフラ建設を繰り返してきたのである28。 市が負担し た支出額は700億円に留まり、 国が負担したコスト分が他 の国家資金を押しのけたという証拠はほとんどない。 市が 直接負担した雇用1件あたり約900万円(約9万米ドル)のコ ストに対し、得られた利益は微々たるものとは思えない。 1990年代の支出を検討すると、 28 国のインフラ投資はプラスの効果を 上げてはいるが、 その効果は限定的で低下傾向にあり、 地域の社会的 支出より効果が低い。 (Bruckner & Tuladhar, 2010) 23 最後に、クラスター全体の長期的な利益は、 市の経済の他 克服や緩和につながるような、 資金と(再雇用の保証によ の部分も合わせ、今も伸び続けている。 上で述べたアシッ る)キャリアの安定を提供するプログラムの構築には利用 クスとイーライリリーの例に加え、シスメックスと川崎重工 されていない。 こうしたプログラムが実際に存在する中国 業は最近、手術支援ロボットの開発に向けて合弁事業を発 の長沙市などでは、 はるかに限られた資源で (海外移住者 足させた。両社はクラスターができる前から存在している のネットワークを通じ) 世界一流の研究者を引き付け、 市内 が、インタビューでは両社とも、これほど強固な知識基盤 に新興企業を生み出している。 このようなプログラムには をもつ市の発展がなければ、 合弁事業には取り組んでいな リスクがあり、何年にもわたる忍耐が必要となることは間 いだろうと報告している。 違いないが、同じく らい大胆な取り組みがなければ、 クラス ター内に集結する可能性 (新興企業) が市を変貌させる役 前途有望な研究、 多数の小企業 ― ただし将来性のある 割を担うことは難しいだろう。 これらの課題は、 決して神戸 新興企業はわずか–最後の点は、 バイオメディカル産業が や日本特有のものではなく、 課題解決へ向けて大胆な行動 「スーパースター」型の経済構造になりがちなことである。 をとることで、クラスター、 市、ならびに国に大きな利益を 大部分の企業が限定的な成功または失敗をする一方で、 もたらすと予想される。 蔓延する症状の治療で決定的な躍進を遂げる企業は非常 に大きく成長することができる。 神戸医療産業都市では、 そのような企業が1社あれば、 経済的利益についても社会 的利益についても評価が劇的に変わるだろうし、 それが不 可能ではないと考える理由は十分にある。 少なくともその ような大躍進の有望な候補を特定することはできる ― 現 在、安全性試験が実施されているiPS細胞技術がその代 表的な例である。 しかし同クラスターには目立った欠陥が1 つあり、これは神戸全体の弱点として挙げられる。 つまり、 高密度の新興企業集積がないことである。 クラスターに は、大企業や中企業との成功にもとづいて、 神戸内の新興 企業エコシステムを活性化する絶好の機会があるが、 課題 も多くある。インタビューしたほぼ全員が、 若手研究者の 「 リスク回避」と「文化的な姿勢」 が高い障壁になっ ていると 述べた。こうした障壁は、 協調的な、あるいは大規模で積 極的な公的プログラムで取り上げられているようには見え ない。例えば利用できる資金および学界との密接なつな がりは、優れた若手研究者 (の一部) にとってリスク回避の 表3 バイオ医薬品関連クラスターの場所 2015年に創出された 直接雇用の推定数 ボストン‐ケンブリッジ 54,000~57,000 サンフランシスコ・ベイエリア 50,000 ニューヨーク/ニュージャージー 77,000 サンディエゴ 46,000 メリーランド/DC大都市圏 36,000 シンガポール 6,000~7,000 出典: GENおよびシンガポール統計局 1 1 出典:GEN (Generic Engineering & Biotechnology News) 、 JLLの推定による雇用数を、 労働人口を用いてGENと照合: http:// www.genengnews.com/the-lists/top-10-us-biopharma-clus- ters/77900393; シンガポール統計局:http://www.tablebuilder. singstat.gov.sg/publicfacing/createDataTable.action?refId=1754 24 有限で不確実なリスク:2017年~ 人口動態上の危機 ティングその他のビジネスサービスが集中しているため、 こ うした分野で出世する機会に恵まれていると見なされる。 全体として市では年間1,000人近くに上る20代の人口が 日本で進行する高齢化–このように神戸は持続的で優れた 流出した。その多くは、市内で学業を修めた後にどこか外 能力を有するものの検討しなければならないのは、 拡大す へ働きに行く若者だが、 市が彼らをつなぎとめられないの る人口動態上の課題である。 日本は全国的に高齢化の危 は、特にその人口構成を考慮すると懸念すべきことかもし 機に直面しており、 神戸も例外ではない。 神戸では賃金や れない。企業の能力と新興企業の不在に関する上記の議 給与を得ていない世帯数が特に多く、 震災以降は高齢人口 論と同様、この場合も市には、 高度な技能を持った労働力 の急増が際立っている。 今後10年で65歳以上が人口の30 を育て、引き付け、保持する点で持続的な強みがあるよう %にまで増え、2030年には優に1/3に達する見込みであ だが、同時に、大卒で、正規雇用や特定の創造産業におけ る�。高齢化する人口の社会福祉費用を満たすために必 る雇用を求めている若者をつなぎとめるという点では対処 要な膨大な税収を確保しながらも競争力を保持し続ける、 しなければならない弱みもある。 という根強く困難な課題を日本の都市は抱えている。 若者を引き付けることが市の 「2020ビジョン」の中心–市 質の高い仕事の継続的な探求–大見出しのデータに隠れ はこのことを自覚しており、現市長は将来に向けたビジョン た雇用シナリオはやや矛盾している。 日本の他の地域と同 の中心に若者を引き付けることを据えている。 市は、その実 様、創出される雇用には、 とりわけ特別な技術的熟練や経 現に向けた再整備事業において、 中心的な駅 (三宮)周辺 験を必要としない比較的付加価値の低い臨時職も多い。 地区を歩いて回れる文化的な地区に発展させるという目標 日本においてこういった職種の賃金は、 ドイツ、フランス、 (すでに活気ある飲食セクターとナイトライフはある) を 英国等の最低賃金と比べると低くなっ ている。日本経済 掲げている。近年、関西地方の他の数都市でも同様の地 全体では、 過去15年間における正味の雇用増加は、 派遣 区を整備したものの、多くの店舗や建物が現行の耐震基準 会社を通した 「非正規」の臨時職における増加がその多く を満たしていないと言われる。 市はようやく震災関連の負 を占める。 最近の国のデータでは、 最終的に2016年に創 債の大半を支払い、この数年で財政能力を回復したため、 出された雇用の60%以上を占める正規雇用に移行すると 同プロジェクトを推進することができる。 見られる29。市は近年雇用の状況は改善しており30、 完 全失業率は近郊の大都市よりも低いものの�、 同様の問 ハード面のインフラの誘惑、 国家プロジェクト、 政策の気 題を抱えている。 高度なスキルを持たない若者 (大卒を含 まぐれ–迫りくる人口動態上の危機とようやく達成した財 む)にとって、臨時雇用は少なく とも一つの選択肢かもしれ 政能力の回復を踏まえ、 市が都市建設と資本投資に目を ないが、望ましいものではない可能性が高い ― このよう 向けるのは当然である。 こうしたハード面のインフラに対 な若者はその後、 より安定的で多様な職が比較的多いと する誘惑は、日本の都市の中で神戸が例外とも、 海外の 考えられる大阪や東京へ、 仕事を求めて出て行く と報告さ 都市と比べて日本の都市に特有の現象とも言えない。 ある れている。 神戸市は、確実に若者を市に惹きつけるため、 程度、ハード面のインフラへの投資が必要なのは間違いな 魅力があり創造的な雇用機会の創出へ向けて取り組んで い。しかし既存の構築物の質の高さ、 神戸中心部の活気、 いる。 高度な若手技術人材にとっ ての魅力、 それとは対照的な新 興企業の不在を考えると、 積極的な人材育成と新規事業 マーケティングと経営にとっての東京の魅力–最後に、 技 プログラムに重点を置く方が、 市の将来的な課題への対処 術・研究スタッフを神戸に引き付けることは比較的容易だ としては重要だろう。もう一つのリスクは、 戦略的優先事項 と報告した企業の一部が、マーケティング・経営スタッフを を決定してから国の支援の活用を探る代わりに、 どのよう 東京から離れた土地に引き付けることはやや困難だと報告 なものであれ利用できる国家プログラムを優先してしまう している。首都は多くの場合、特に金融サービス、コンサル ことである(日本の都市に共通するアプローチ) 。最後に 第3のリスクとして挙げられるのは、 脚光を浴びているセク ターに気を取られて、明らかに比較優位があるセクターを 29 兵庫労働局 「一般職業紹介状況」および日本銀行神戸支店「管内金 あまり重視しないことだろう。 市の大きな強みはバイオテク 融経済概況」 より ノロジー、医療機器、アパレルデザインにあるのであっ て、 30 総務省労働力調査より 25 ソフトウェア開発にはそれほど秀でていない。 前者の分 においても、既存の企業レベルまたは組織レベルの能力を 野では、シリコンバレーの低資本モデルとは大きく異なる ネットワークレベルの能力に結びつけるために必要な社会 新興企業奨励モデルが必要になる。 市が「新興企業500 資本や共同行動の能力は十分にあると思われる。 社」をつなぎ留めたいと考えるなら、 他のセクターを受け 入れる用意があると宣言することは、 第一段階としては有 こうした能力を備えるのはソフトウェア関連の新興企業で 効だが、おそらく十分ではない ― むしろプログラムの資 はなく、 ハードウェア 、バイオテクノロジー、消費財の企業 金援助、内容、プロセスを根本から変更することが必要だ である。 とはいえ最も欠落が目立つのは、 新たな企業の創 ろう。 設である。 KBICで目立つ新興企業の不在は、 どちらかと 言えば市の経済の他の部分ではるかに深刻である。 ロボッ ト業界のある大企業は、 社内の優れた研究者が独立して 持続的な強みの組み合わせ 新たな企業を立ち上げることを心配してすらいないと報告 した ― そのようなことはまるで考えられないようだ。 アシ ックスは最近、 スポーツ関連テク ノロジー分野の新興企業 高度な技能を有する人材にとっての魅力。 神戸には注目 に投資する基金を創設したが、 基金が十分な機会を調達 に値する強みがある–市が擁する企業は、 ロボットや靴、 するために目を向けているのは米国と東京である。 同社は 医薬品やヘアケアなど幅広いセクターにおいて優れた能力 基金に関連して起業を促進する組織の設立を検討してい を誇り、 イノベーションを追求し、 高度な作業を成し遂げて るが、 そのような組織は東京に置かれる可能性が高い。 市 いる。 例えばアシックスは、 ランニングシューズという競争 は、 少ない資本と短いリードタイムのソフトウェア新興企業 の激しいハイテク業界 (同業界でナイキは世界最大の3D を育てるためにシリコンバレーで開発された 「500 start- プリンターの利用者であり、 アシックスはSPring-8の粒子 ups」プログラムなどの取り組みを開始している。 市の産業 加速器を利用することがある) において迅速な反復と敏捷 界における強みを受けてソフトウェア以外の企業もプログ な発展に相当するものを目指している。 P&Gの神戸R&D ラムに応募したが、 異なるタイプやモデルが市の強みに合 オフィスは、 今や同社でも際立った優良ブランドとなった 致するだろうかという疑問が浮かぶ。 市ではまた、 自動運 SK-IIの発展を導いた。 市内の企業は、 最先端の8軸ロボッ 転車という、 市の強みと関連が深いとは言えないもう一つ ト機器を導入し、 それを 「インダストリアル・インターネッ の分野で実証プロジェクトの企画を実施したこともある。 ト」 に接続することで、 ビッグデータを通して生産性を向上 全体として市がアイデアの源泉を求める先は、 シリコンバ させている。 日本経済は昔から専門性が高く優れた能力を レーよりも、 ボストン、 ポートランドなど工業、医療、 消費 備える中小企業の層が厚いことを特徴としており、 関西は 財関連の能力を併せ持つ都市に、 あるいはそういった都市 特にこの点で知られている。 このような中規模企業の一部 のいく つかをあわせたものにした方が賢明かもしれない。 は、 現在、 上で述べたようなタイプのロボットやそれを有効 利用できるサービスを提供している31。 高度な分野では、 徹底した実験、大胆さ、学習の必要。何をするべきかより 高い技能を備えた労働力の採用に困難があるという証拠 も、何を避けるべきかを言う方が容易なものである。 市は はほとんどない。 インタビューを行った企業の中で、 若手エ 最先端を行き、多くの強みを持っているが、それらを形にす ンジニア 、技術者、 研究者を神戸に引き付ける上で、 大きな るには市の革新システムをさらに強化する必要があり、 そう 摩擦があると述べたところはない。 それどころか、 神戸には しなければ強みは衰退してしまうかもしれない。 そのため 大きな魅力があると答えた企業もある。 あるR&Dの責任 には、以下の2つの領域でソフト面のインフラに焦点を絞っ 者は 「神戸と言えば、 多くの手が上がります 」と述べ、 採用 た、積極的だがかなり高いリスクが予想されるプログラム イベント ― それも東京で開催されたイベント ― での反 が必要である。 応を説明した。 1. 第1に、市の大企業やR&Dセンターに存在する生産性 最前線に立つ企業の強力なネットワーク–こうした企業 の高い部分を支援することで、 重要でかつ成長の速い は、 最先端の技術において協力するためのネットワークを 新たな企業を生み出したり、 既存の小企業の発展につ 形成している。 こうした協力は2極に集中している。KBIC なげることである。そのためには、 市には、 研究者のリ と、それより小規模な西神地区である。 後者はポートアイラ スク回避を彼らに任せるのではなく、 試行錯誤により ンドを新設するために山を切り開いた地区に建設され、 こ 解決すべき非常に困難な問題と捉えるアプローチが必 こに多数の大企業のR&D部門が拠点を置いている。 KBIC 要になるだろう。わかりやすい例として、 市は地域の大 より活動は盛んかもしれないが、 企業内の漸進的な革新 学とパートナーシップを結び、 起業を目指して出て行く の方に重点を置き、 観察される企業間での協力の度合いは 研究者が元のポストに戻れることを保証すること、 研 低い。 また、 こうした企業は共同でロビー活動を行う他、 多 究者やその社員に対し、 1回限りではあるが十分な前 様な (地元や国内および海外の) 商工会議所が大きな影響 払いの住宅補助その他の援助を提供することを検討し を及ぼしているという話が繰り返し聞かれた。 序論で述べ てもよいだろう。また新興企業に対し、 やはり1回限り たように、 過去にはこのような強みが市の発展の選択肢を の競争力のある高額な助成金を提供する制度を整備 制限した可能性があり、 資料によると最近でも「既得権」 することも考えられる(開発途上国においてでさえ、 コ が依然として幅を利かせ、 影響力を持っているということ ンサルティング重視の「技術支援」 よりはるかに効果 である。 全体として、こうした共同行動、川崎とシスメック 的なことがわかっているアプローチ) 32 。 スのような業界横断型の合弁事業、 アシックスが「京」と SPring-8を利用するような官民学界の合同事業のいずれ 京都製作所。 31 タバコ包装機械の製造から始まったとされる。 32 (McKenzie, 2015) 2. 第2に、こうした生産性の高い部分の拡大を支援する ことで、若手を中心とする労働力をさらに取り込む。 職 業訓練は兵庫県と国の管轄であるが、 神戸市は特に女 性や若者に焦点を絞った労働力開発や研修プログラ ムを行うことでそれらの取り組みを補完することがで きる。現在のところ、 職業労働プログラムの提供は厚 生労働省の管轄であるため、 いくつかの中小企業向け 人材育成を除き、 市はあまり介入していない。また、若 者は職を得やすく、 研修を受けることに積極的ではな いため、市が非正規の若手労働者に焦点を絞った職業 研修を用意する必要はほとんどないと考えている。 ( もっとも、西神地区のR&Dセンターでは、若手の技術 労働者は他の先進国の最低賃金を下回る賃金しか得 ていない) 。 失敗し易い場になる。 上記のいずれも簡単な仕事ではな い。こうした課題に対する答えを見つけるため、 市は体系的 に試行を重ね、学習する必要がある。 市には、官民学界組 織のネットワークと、新興企業育成の初期段階のプログラ ムを含む多彩なプログラムとを備えたKBICの例がある。「 新しいものに日本で初めて挑戦する」 場所に戻り、新たな 挑戦を受け入れることで、 神戸は次の成長を遂げるために 必要なきっかけを得ることができるだろう。 神戸は日本で 初めて根本的に新しい何かに挑戦する都市になる必要が あるのかもしれない。 それは、若手と中堅の労働者が共に 失敗するリスクに挑みに来るような場である。 27 28 結論 1850年代後半より第二次世界大戦後に至るまでの最初 倍近くに拡大したため、市が負った巨額の負債が1990年 の100年間、 開かれた港としての神戸は明快で現実的なビ 代に影を落とし、震災からの復興の足かせとなった。 震災 ジョンに従った。 日本の中で最も世界に開かれた都市、 新 直後の数カ月における復旧作業は ― 平常通りの生活をあ しいことへの挑戦に最も積極的な都市になることを目指し る程度回復するため ― 迅速に行う必要があった一方、 復 た。 1960年代からは常に自らを改革する都市、「株式会社 興の一部の側面は慎重に進められ、 全体としてはやや急 神戸市」 というビジョンに転じた。震災後、市は迅速で創 ぎ足の復興となった。そのため、2000年以降になっ て需 造的な復興のビジョンを追求するという選択をした。 要が急激に落ち込む結果となったが、 それまでの資本の流 入が優良企業だけでなく振るわない企業も支えたために これまでに市は注目に値する成功をいく つか収めている。 産業構造改革が遅れた可能性がある。 2000年以降の緊 経済構造を造船へ、 次いで機械と先端素材へ、そして靴や 縮財政によって、人口動態上の危機が近づいても、 市は新 農業関連などの消費財へ、 さらにはライフサイエンスへと たなプログラムを実験したり考案したりする自由を制限さ 転換した。 都市経営あるいは市街地の再利用や改善にお れた。 けるとりわけ困難な作業において制度的な専門知識を積 み上げ、 潜在的な価値を開花させ具体化した。 こうした強 今日、市にはそうした迫りくる危機と闘うための強みが多 みの多くを展開し、 人口動態上の追い風もなく、「失われた く備わっている。現在、市はこうした強みを活用する、また 10年」に陥った国の経済状況を目の当たりにしつつも、 20 は補完する様々なアプローチを試みているところである。 世紀最大級の自然災害から迅速で実のある復興を果たし こうした試みの中には、地域の中で認識された問題への対 た。少なく とも一つの地区では、市は市民の懸念にしっか 応策として生み出されたものが含まれている。 また全国的 りと対応しただけでなく、 市民参加を利用して意義深い都 に利用できるプログラムという意味で、 日本政府の緊急課 市再開発プログラムを実行した。 同プログラムは速いペー 題に沿って構築されたものもある。 その他さらに、就職フ スで、かつ最終的なコストを最低限に抑えて実行され、 し ェアや需要と供給のマッチングなど従来型の積極的な労 かもすべてのステークホルダーに持続的な価値をもたらし 働市場の介入、あるいは典型的な促進・ 育成プログラムが た。ライフサイエンスのセクターでは、 失敗することが少な ある。 くない領域 ― 最先端技術のクラスター創成 ― で大きな 成功を収め、 6倍の規模で恵まれた環境のシンガポールを とはいえ、 市にはなお、問題を受けそれに対する解決を反 上回る成果を上げている。 復する場を提供し、 また、そこから学びを得るためのプロ セスや制度を構築する必要があるかもしれない。 市には設 開発途上国の都市がこの経験から学べることは多々ある 計からロボット工学、 バイオテクノロジーまですばらしい能 が、戒めもあった。1960年代以降の数十年における自己 力が揃っ ており、高級な技術人材を引き付ける極めて魅力 改革の追求および制度に対する自信は、 規模とバランスの 的なライフスタイルの評判も高い。 とすると市が前にする 感覚からやや隔たっ てしまった感がある。山を海へ運んだ 主な課題は、 青少年育成とイノベーションに対して大胆な 都市は、それに代わる手段が既得権との困難な対立だった ビジョンを持ちながら十分な意欲と包摂性を発揮すること 場合は特に、ただ同じ対策を続けることができた。 1980 だろう。 年代にはすでに大規模な埋め立てプロジェクトが範囲を2 29 参考文献 AndrewsMatt, PritchettLantt, WoolcockMichael. 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